赤い狼煙と救荒倉
赤い狼煙を見上げた瞬間、わたくしは地下保管室へ引き返しました。
階段を下りる靴音が、冷えた石壁に鋭く反響します。保管室には乾いた羊皮紙と蝋、わずかな黴の匂いが満ちていました。
「ハンナ、北倉の見取図を。書記官は共同備蓄の輸送隊を止め、荷車を東道へ迂回させてください」
「セシリア、君はここに残れ」
エルネスト様の声は、普段より低く響きました。
「お断りいたします。襲われているのは、わたくしが昨日署名した倉です」
「だからこそだ」
「署名には責任が伴います。印章だけ置いて、安全な場所から無事を祈る趣味はございません」
もっとも、祈るだけで穀物が守れるのなら、会計官ではなく聖職者を三十人ほど雇っております。そのほうが俸給表も簡素で済むでしょう。
エルネスト様はわたくしを見つめ、短く息を吐きました。説得を諦めたというより、説得に費やす時間まで計算に入れたお顔です。
「では私の馬車に乗れ。指揮は君、護衛は私だ」
「妥当な分担でございます」
北倉までは馬車で半刻。
車輪が凍りかけた轍を激しく噛み、窓の外では赤い狼煙が冬空へ滲んでいます。わたくしは揺れる膝の上へ見取図を広げ、北倉の構造と人員を頭の中で重ねました。
母の救荒倉には、盗賊を剣で退ける仕掛けなどございません。その代わり、火災と雪崩に備え、外扉と内扉の間に細い荷改め場が設けられています。
荷車を一台ずつ通し、積荷の重さを量るための場所です。
つまり、大勢で押し入るには、ひどく不向きでした。
「守備兵は?」
「八名です。襲撃側は狼煙の数から三十名以上」
「正面からは持たないな」
「正面から戦わせません。倉番には防火規程の第三項を守るよう、昨日改めて確認させております」
「火元を隔離し、床と壁を濡らす、か」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「君の作った規程だから読んだ」
当然のことのように返され、わたくしは一瞬だけ言葉を失いました。
王国では、わたくしの提出した書類は署名欄だけ眺められるのが常でした。内容まで読まれるというのは、妙に落ち着かないものです。嬉しい、などという勘定科目はないため、ひとまず胸の内へ保留として記帳しておきました。
到着したとき、武装した一団はすでに外柵を破っておりました。しかし、内扉は閉ざされ、狭い荷改め場で立ち往生しています。
怒号と馬の嘶きが入り交じり、踏み荒らされた雪には泥が黒く浮いていました。それでも穀物の香りは倉の厚い壁の内側に留まり、一袋たりとも外へ出ておりません。
倉番たちは屋根の排雪口から水を流し、石床を濡らしていました。火を放たせず、足場も悪くする。わたくしが以前定めた防火規程を、そのまま防衛に使ったのでしょう。
規程とは、読まれて初めて役に立つものです。王都の飾り棚に眠る勅令にも、少しは見習っていただきたいところでした。
「門を開けろ! 国王陛下の徴発である!」
柵の向こうで男が叫びました。声には威勢よりも焦りが混じっています。
身につけているのは王国北部守備隊の外套です。ただし袖口は擦り切れ、馬は痩せ、弓兵の矢筒も半分ほどしか埋まっておりません。頬はこけ、唇は乾ききっている。略奪に慣れた者の目ではなく、命令と空腹の間で追い詰められた者の目でした。
賊ではない。
もっと始末の悪い、食べ物を失った正規兵でした。
「命令書を拝見いたします」
わたくしが前へ出ると、隊長らしき男が剣を向けました。切っ先が冬の日を鈍く弾きます。
「女が口を挟むな!」
「その女が、この倉の基金管理者でございます」
隣でエルネスト様が剣の柄へ手を置きます。たったそれだけで、こちらへ向いていた切っ先がわずかに下がりました。
便利な威圧感です。帳簿には記載できませんが、護衛費としては申し分ございません。
投げ渡された命令書には、アッシュフォード家の代官印がありました。蝋印そのものは本物ですが、文章は急ごしらえで、日付の筆跡だけが異なっています。
救荒倉から小麦三百袋を北部守備隊へ移送せよ。ただし、受領地は兵舎ではなく、王都へ向かう南街道の中継所。
「皆様は、四か月分の俸給と二か月分の糧食を受け取っていないのですね」
隊長の顔が強張りました。
「なぜ知っている」
「この命令書に、未払い分を補う記載がないからです。正式な徴発ならば、輸送費、護衛費、兵への追加糧食をどの勘定から支出するかが明記されます。代官は皆様に『倉を押さえれば、その場で一割を与える』と約束したのでは?」
沈黙が答えでした。兵たちの視線が、隊長と命令書の間をさまよいます。
三百袋の一割は三十袋。四十人近い兵と馬を、ひと月養うにも足りません。
残り二百七十袋は王都へ運ばれ、相場が上がったところで売られる。兵には空腹と、救荒倉を襲った罪だけが残ります。
「代官殿は、皆様をずいぶん安くお使いになるのですね」
「黙れ!」
「黙れば、未払いの俸給が届きますか?」
剣を握る男たちの間に動揺が走りました。怒りの向きが、ゆっくりと門の内側から別の場所へ変わっていきます。
わたくしはハンナから受け取った守備隊の支出控えを掲げます。王都から送られたはずの軍費は、三か月前に代官府で受領済みでした。そして同じ日に、代官名義で銀食器と南方産の葡萄酒が購入されています。
「こちらが受領印、こちらが商会の請求書です。日付も金額も一致しております」
兵の俸給が、宴席の卓上へ姿を変えたわけです。
剣より銀の匙を優先するとは、たいそう優雅な軍備でございますこと。
「武器を置いてください」
わたくしは告げました。声を張る必要はありませんでした。数字は大声を出さずとも、人の逃げ道を塞いでくれます。
「皆様の未払い俸給は、代官の財産を差し押さえたうえで、会計院に請求させます。救荒基金からは一粒も払いません。ただし、審査が終わるまでの食事と馬の飼料は、共同備蓄の警備契約に対する前払いとして支給できます」
「俺たちを雇うというのか」
「倉を襲うほど道に詳しい方々です。今度は、襲う者を見つける側に回っていただきます」
「俺たちを信用できるのか」
「信用は契約を履行した後に生まれるものです。最初から求めるつもりはございません」
隊長は苦い顔をしましたが、反論はしませんでした。
「拒めば?」
「大公軍が、正規の越境襲撃として処理します」
背後でヴェルデンの騎兵が一斉に槍を立てました。空気を裂く音が、妙に揃って響きます。
選択肢は二つ。どちらも明瞭です。
やがて隊長の剣が石床へ落ちました。濡れた床の上で、硬い音を立てて二度跳ねます。
続いて一人、また一人と武器を置いていきます。最後の弓が下ろされたとき、倉番たちの間から長い安堵の息が漏れました。
負傷者は三名。いずれも濡れた床で転んだだけ。失われた穀物は零袋でした。
その日のうちに二十八名が共同備蓄の護送人として審査を受け、残る者も会計院で証言することになりました。土地勘のある護送人が増えたことで、北倉から山間部への輸送日数も短縮できる見込みです。
さらに兵の口から代官による軍費流用が明らかになり、王都へ送られるはずだった徴発命令はすべて停止されました。
剣で倉を奪おうとした代官は、剣を支える俸給を先に奪っていた。
自分で足元を切っておいて、なぜ立てないのかと騒ぐ。王国の上層部では、近頃その遊びが流行しているようです。
夕刻、北倉の在庫を数え終えたところで、わたくしはエルネスト様の手袋に血が滲んでいることに気づきました。
「お怪我を?」
「柵の破片で少し切っただけだ」
「少し、を判断するのは負傷した方ではございません」
倉番の小部屋へ連れていき、灯火の下で手袋を外します。浅い傷でしたが、乾きかけた血が手の甲に細く残っていました。
わたくしは清潔な布を当て、慎重に巻いていきます。指先に触れると、エルネスト様の手がわずかに強張りました。
「痛みますか」
「いや」
「では、なぜ力を?」
「怖かった」
不意に落ちた言葉へ、わたくしは顔を上げました。
「襲撃が、でございますか」
「君が剣の前へ出たことがだ」
「必要な交渉でした」
「分かっている。君なら兵の空腹も、命令書の虚偽も見抜くと分かっていた。止めれば、君の判断を奪うことも」
エルネスト様は傷のないほうの手で、布を巻くわたくしの指を包みました。大きな手のひらは冷えているのに、触れられた指だけが熱を持ったように感じます。
「だから次も止めない。だが、君が前へ出るなら、私も隣へ行く。それだけは許してほしい」
守るから下がれ、ではない。
進むなら隣にいる、と、この方は仰るのです。
わたくしの能力を必要としながら、わたくし自身の意思まで尊重する。そのような契約条件を提示された経験は、これまで一度もありませんでした。
「許可ではなく、お願いがございます」
「聞こう」
「次からは、お怪我を隠さないでくださいませ。わたくしは数字だけでなく、隣にいる方の無事も数えたいのです」
エルネスト様の目が、灯火を映して柔らかく細められました。
「それなら、互いに数え落としはなしだ」
「厳しい監査になりますわ」
「望むところだ」
包帯を結び終えても、重なった手は離れませんでした。
その夜、代官府の財産差し押さえに向かった会計院から、早馬が戻りました。
蹄の音が静まりかけた倉の庭を叩きます。騎手は泥にまみれたまま倉へ駆け込み、息を切らして叫びました。
「代官は逃亡! 王都の軍費台帳を持ち出し、偽聖女マリエルの馬車に乗りました!」
温もりの残る指を離し、わたくしは立ち上がりました。机上の地図へ歩み寄り、北へ向かうはずだった護送隊の進路を、即座に南へ引き直します。
「追います。あの台帳には、王家の対外債務の連帯保証人が記されております」
(第14話へ続く)




