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母の救荒金庫

 王国へ戻る、と申し上げたわたくしに、エルネスト様は一度だけ頷きました。


 窓の外では、夜明け前の薄青い空に国境の山並みが沈んでおります。急を要する話だと、説明するまでもなく理解してくださったのでしょう。


「出発許可は一刻で整える。私も行こう」


「大公殿下が他国の金庫へ押しかければ、外交問題になります」


「では、君の護衛として行く」


「それも十分に外交問題でございます」


「難しいな、恋慕というものは」


 さらりと困った単語を混ぜないでいただきたいものです。


 心臓が一拍だけ職務を放棄しかけましたが、幸い顔には出ませんでした。たぶん。


 結局、エルネスト様は大公の名代ではなく、北部救荒基金の返還を見届けるヴェルデン側監察官として同行なさいました。国境を越えて運用される資産が含まれている以上、筋は通っております。


 筋を通すために一刻で監察官任命状を作らせるあたり、この方も大概でございますが。


 ハンナは馬車へ毛布を積みながら、しみじみと申しました。


「権力を正しく使って強引に同行する方、初めて見ました」


「褒めているのか?」


「半分ほどは」


 残り半分は聞かないのが、統治者の賢明さでございましょう。


 冬の名残を含んだ街道は固く、車輪が石を踏むたびに馬車が細かく揺れました。国境では、送還されたイザベラの馬車とすれ違いました。


 窓布の隙間から見えた妹の横顔は青ざめており、伏せた目がこちらを向くことはありませんでした。妹は顔を上げませんでしたし、わたくしも馬車を止めませんでした。


 声をかければ何かが変わる、という時期はとうに過ぎております。


 彼女には彼女の審理があり、わたくしには果たすべき受託者の責任がございます。それぞれが自分の署名と選択を引き受ける。ただ、それだけのことでございます。


 母の救荒金庫が置かれていたのは、公爵邸ではなく、北部会計院の地下でした。


 湿り気を帯びた石造りの保管室には、蝋と古い羊皮紙の匂いがこもっています。王国会計院の役人と、アッシュフォード家の新しい代官、それから顔色の悪い第二王子殿下が待っておりました。


「セシリア。ようやく来たか」


 レナード殿下は、挨拶より先にわたくしの掌にある鍵を見つめました。


「その金庫を開けろ。北部への支払いが滞っている」


「どの支払いでございましょう」


「領兵の給与、街道の修繕、王都への穀物搬送だ。元はアッシュフォードの金だろう」


「いいえ。母が私財を拠出し、凶作時の種籾、冬季の施粥、災害復旧に用途を限定した基金です。公爵家の運営費ではございません」


「今が非常時だ!」


 石壁に声が反響し、代官が肩を震わせました。


「非常時であれば、定められた用途へお使いいただけます。領兵の未払い給与は公爵家の債務、王都への搬送費は王家の経費ですので、対象外でございます」


 帳簿というものは、声の大きさを評価項目に含めません。含めていたなら、王宮の財政はさぞ健全だったことでしょう。


 会計院の役人が、ためらいがちに一枚の証書を差し出しました。指先がわずかに震えているのは、地下の寒さのためだけではなさそうです。


「殿下はすでに、この基金を担保として北部七商会から穀物を買い付けておられます」


 記載された額は金貨八千枚。返済期限は十日前。


 担保設定者の欄には、レナード殿下の署名がございました。流麗ではありますが、他者の財産を自分のものに変えるほどの魔力はございません。


「受託者の承認がありませんので、担保契約は無効です」


「私が王子でもか?」


「王子殿下であっても、他人の財布を担保にはできません」


 わたくしが静かに答えると、役人はもう一通の通知を読み上げました。


 七商会は無効な担保を示されたことで王家の信用審査をやり直し、掛け売りを全面停止。すでに王都へ向かっていた穀物船三隻も、代金が支払われるまで北港へ留め置かれたそうです。


 レナード殿下の唇から血の気が引いていきます。商人は王冠ではなく支払期日を見ます。それを今までご存じなかったのなら、ずいぶん高価な授業料でございます。


 わたくしは何も止めておりません。


 存在しない担保で買い物をなさった方が、次の買い物を断られただけでございます。


「お前が商会へ命じたのだろう!」


「わたくしが命じたのであれば、三隻では済みません」


 事実を申し上げただけなのに、殿下は黙ってしまわれました。


 少々、言葉が正直すぎたでしょうか。


「基金で王都の穀物を買えばよい。飢える者を救うためだ」


「王都は現在、飢饉ではございません。宮廷が従来の価格でパンを買えなくなったことと、民が飢えることを混同なさらないでくださいませ」


 食卓の白パンを黒パンに替えるのは、災害とは呼びません。


 レナード殿下には退室していただき、わたくしは母の鍵を錠へ差し込みました。長く使われていなかった錠は渋く、両手で押し込むと、低い音を立てて回ります。


 重い扉の内側に、金貨はほとんどありませんでした。


 代わりに並んでいたのは、北部十二か所の救荒倉の権利証、種籾の預かり証、製粉所三基の持分証書。そして母の筆跡で、運用益を記した二十年分の台帳でした。


 癖のない細い文字を目にした瞬間、幼い頃、母の執務机で羽根ペンの音を聞いていた記憶が胸をよぎります。けれど、感傷に浸るために母がこれを遺したのではございません。


 基金の価値は、金庫へ眠る金ではない。


 凶作の年にも種を絶やさず、道が塞がれても別の倉から穀物を動かせる仕組みそのものだったのです。


 ところが台帳と現在の在庫を照合すると、十二の倉のうち三つが空になっていました。


 持ち出し命令を出したのはアッシュフォード家の代官。王都への上納を優先し、昨年の不作で減った種籾まで食用として搬出していたのです。目先の一食を飾るために、春の百食を潰した計算になります。


「返還させますか」


 会計院の役人に問われ、わたくしは首を横に振りました。


「すでに食べられた穀物を追いかけても、畑には戻りません。代官には規程どおり損失額を請求してください。わたくしは春に間に合う方法を選びます」


 責任の追及は帳簿に任せればよいのです。わたくしが見るべきは、まだ芽吹いていない畑のほうでした。


 ヴェルデンでは今年、南部の灌漑工事が完成し、種麦に二割の余剰が出ています。一方、王国北部の救荒倉には、寒冷地向けの蕪と豆が残っておりました。


 わたくしは基金の運用規程を確認し、国境を越えた現物交換契約を作成しました。


 ヴェルデンから種麦を北部三領へ送り、北部から蕪と豆の種をヴェルデンの高地へ移す。輸送には、かつて塩を運んでいたわたくしの交易網を使い、帰りの荷台を空にしないことで費用を半分に抑えます。


 さらに十二の救荒倉をヴェルデン側の五倉と連携させ、どこか一つの在庫が基準を下回れば、最寄りの倉から自動的に融通する共同備蓄規程を結びました。


 書記たちの羽根ペンが紙を走り、封蝋が次々と置かれていきます。エルネスト様は口を挟まず、必要な箇所でのみヴェルデンの印章を押してくださいました。わたくしの判断を疑わず、けれど責任だけは半分引き受ける。その沈黙が、何よりありがたく感じられました。


 三日後、最初の種麦二百袋が国境を越えました。


 空だった三つの倉は満たされ、北部では春蒔きの中止を免れます。ヴェルデンでも寒害に強い作物を試せることになり、高地二村の冬季配給費を来年から三割減らせる見込みが立ちました。


 一つの金庫を守るために戻り、十七の倉を結ぶ仕組みを持ち帰る。


 母なら、悪くない取引だと笑ってくれるでしょう。


 最後の契約書へ署名した夜、わたくしは地下保管室の階段に腰を下ろしました。冷えた石の感触が衣服越しに伝わり、張り詰めていた力がようやく抜けていきます。


 疲れた姿を見せるのは得意ではございません。けれど、エルネスト様は何も仰らず、わたくしの隣へ座りました。


「帰ってきてよかったか?」


「はい。ですが、取り戻しに来たのではございません」


「分かっている。君は過去を取り返すためではなく、未来を減らさないために来た」


 その言葉が、胸の奥へ静かに落ちました。


 この方はいつも、わたくしが成し遂げた数字だけでなく、その数字を選んだ理由まで見ようとしてくださいます。能力を求められることには慣れております。けれど、その奥にある願いまで見つけられることには、まだ慣れません。


「エルネスト様」


「何だ」


「わたくしが戻る場所は、ヴェルデンです」


 口にして初めて、その言葉が決意ではなく安堵を含んでいることに気づきました。


 そして差し出された手を待たず、わたくしからその手を取りました。


「帰路も、ご一緒してくださいますか」


「監察官として?」


「本日の契約を更新した方として、でございます」


 エルネスト様の指が、確かめるようにわたくしの指へ絡みました。剣を握る手は硬いのに、その力は驚くほど慎重でした。


「では、期限が切れる前に帰ろう」


「急いでも明日にはなります」


「日付が変わったら、もう一度頼む」


「予約は承っておりません」


 そう答えながらも、わたくしは手を離しませんでした。


 翌朝、共同備蓄の開始を告げる鐘が鳴りました。


 一度、二度、三度。


 澄んだ音が北部の冷たい空へ広がり、新しい仕組みの始まりを告げます。


 けれど、その余韻が消えるより早く、続いて北の丘に、赤い狼煙が三本上がりました。


 救荒倉が武装した一団に襲われた合図でした。


(第13話へ続く)

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