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逃亡者にも値札はつけません

「お姉様、お願い――わたくしを匿って!」


 わたくしの裾を掴むイザベラの指には、乾いた血が滲んでおりました。


 追手に傷つけられたのかと思いましたが、爪の間に残っているのは赤い封蝋です。どうやら道中で、ずいぶん急いで手紙を開けたようでございます。


「まず、その手をお放しなさい」


「見捨てるの?」


「裾を掴まれていては、事情を伺うための椅子へご案内できません」


 姉妹の情愛は、床に這いつくばらなければ示せないものではございません。


 イザベラが渋々手を放すと、エルネスト様は衛兵へ武器を下げるよう命じました。ただし門は閉じたまま、彼女の外套と荷物は預けさせます。


 亡命を求める者は客人であっても、無条件の自由を与えられるわけではありません。


「彼女は君の妹だ。審問には私も立ち会う」


「情に流されるとお思いですか?」


「逆だ。君が情を切り捨てすぎないように見ている」


 痛いところを突かれました。


 わたくしは怒りを数字へ置き換えることには慣れております。けれど、悲しみまで損失欄へ押し込める癖は、あまり褒められたものではないのでしょう。


 門の広間に机を運び、書記官と女性衛兵を同席させました。イザベラには温かい湯と毛布を与え、傷の手当てを済ませてから、亡命を求める理由を尋ねます。


「わたくし、処刑されるのよ」


「王都から正式な判決が出たのですか?」


「出ていないわ。でも、商人たちは掛け売りを止めたし、使用人まで辞め始めたの。お父様は全部わたくしのせいだと怒鳴って、レナード殿下も証言を撤回してくださらない。あのままでは罪を押しつけられるに決まっているでしょう!」


 つまり、処刑から逃げたのではなく、請求書と叱責から逃げてきたようです。


 請求書は足が遅いぶん、国境を越えても追いついてまいりますのに。


「出国はどのような手段で?」


「わたくしの馬車で」


「関所の許可証は?」


「……門番に金貨を渡したわ」


「その金貨はどこから?」


 イザベラは唇を噛み、預けた荷物を見ました。


 衛兵が革袋を机へ置きます。中から出てきたのは宝石が三点、金貨が四十七枚、そして黒い鉄で作られた古い鍵でした。


 見間違えるはずがありません。


 アッシュフォード領の主金庫、その内扉の鍵です。


「領地金庫から持ち出したのですね」


「わたくしだって公爵家の娘よ!」


「それは金庫の所有権を意味しません」


「お姉様が管理していた頃には、お金がいくらでもあったじゃない!」


 いくらでもあったのではございません。


 入る額を数え、出る額を抑え、冬を越すための種籾と職人の賃金を先に避けていただけです。井戸から金貨が湧くと信じていたのなら、ずいぶん豪華な井戸でございます。


 書記官が革袋の内側から一枚の紙を見つけました。封蝋は割れており、イザベラの爪に残っていた赤と同じ色です。


 それはアッシュフォード家の会計官から彼女へ宛てた報告書でした。


 主金庫の現金は、先月分の衛兵の給与にも足りない。残っていた銀器は債権者が回収し、地代の前借りも断られた。冬支度の費用を確保するには、南の狩猟林を手放すほかない――そう記されていました。


「鍵を持ち出したため、金庫を開けられず、残額の確認も給与の支払いも止まっているのですね」


「だって、何も残っていないと言われたのよ。だったら鍵くらい――」


「何も残っていない金庫の鍵を、なぜ国境までお持ちになったのです?」


 イザベラは答えませんでした。


 宝石商か両替商へ、公爵家の財産へ通じる証として差し出すつもりだったのでしょう。中身より、まだ中身があると信じさせるための鍵。


 信用を食べ尽くした者は、最後に扉そのものを売ろうとするのですね。


 わたくしは鍵と報告書を封印し、ヴェルデン側の立会記録を添えて王国へ返送するよう命じました。金貨は出所が確認できるまで保全し、宝石はイザベラの私物か、未払い品かを照会します。


「返すの?」


「当然です」


「お姉様なら、その鍵でアッシュフォード家を取り戻せるでしょう?」


「要りません」


 驚くほど素直に言葉が出ました。


「わたくしが欲しかったのは、鍵を持つ権利ではなく、正しく働いた者が正しく報われる場所です。それはもう、こちらにございます」


 翌朝、王都へ照会を送ると、昼過ぎには早馬で返答が届きました。


 イザベラに死罪の判決は出ておらず、そもそも正式な拘束命令すらない。ただし、私印の不正使用、処刑命令書の作成、領地財産の持ち出しについて審理への出頭を求めているとのことでした。


 そして彼女が持ち出した四十七枚の金貨は、解雇された領兵へ支払うはずの賃金だったと判明しました。


 鍵が消え、給与が消え、当主の娘まで逃げた。


 その報せが広まった夕刻、アッシュフォード家に残っていた領兵百八十名が、揃って職務を辞したそうです。暴動も略奪も起こりませんでした。彼らは武具を倉庫へ返し、未払い額を記した証書を一枚ずつ受け取って、静かに門を出たのです。


 わたくしは彼らへ辞職を勧めておりません。


 働いた対価を受け取れない者が、働くことをやめただけでございます。


 一方、ヴェルデンではイザベラの処遇を前例として、亡命審査の手順を整えることになりました。


 申請者の身分ではなく、迫害の事実、犯した罪、送還後に受ける危険を別々に調べる。出身国からの要求だけで引き渡さず、申請者の涙だけで匿いもしない。審査中の衣食は公費で最低限を保障し、その費用を盾に証言を迫ることも禁じました。


 三日で仮規程をまとめ、国境の五つの門へ共通の聞き取り票を配ります。


 その直後、北門で保護されていた十二人の鉱夫について、出身国が主張していた「銀貨の窃盗」が虚偽だと判明しました。実際には坑道の崩落を訴えたため追放された者たちで、彼らの証言からヴェルデン側へ延びる旧坑道の危険箇所まで特定できました。


 坑道を封鎖し、春の崩落を未然に防げたことで、麓の二つの村が守られます。


「一人を公平に扱う仕組みが、二つの村を救ったか」


 報告書を閉じたエルネスト様が、わたくしを見ました。


「公平とは、ときどき利益を連れてくるものです」


「利益がなくても、君は同じようにしただろう」


「……イザベラを匿わなかったことを、冷たいとお思いですか?」


「いいや。君は彼女を無罪にもしなかったが、罪人とも決めつけなかった。私なら、君を殺そうとした命令書を作った相手に、そこまで公正ではいられない」


 エルネスト様はわたくしの手に、ご自身の手を重ねました。


「だから私は、君の隣に立つ者として恥じない判断を覚えたい」


「毎日更新の契約に、新しい条項を加えるおつもりですか?」


「ああ。君を守るだけでなく、君の選んだ正しさも守る」


 胸の奥が、静かに熱を持ちました。


 守られることは、囲われることではない。


 この方はそれを、言葉だけでなく、わたくしへ判断を委ねることで示してくださいます。


 わたくしは重ねられた手を、今度はこちらから握り返しました。


「本日の契約は、更新いたします」


「明日の分も予約できないだろうか」


「規則ですので」


「では、日付が変わるまでここにいる」


「大公殿下が執務を放棄なさるなら、契約違反でございます」


 残念そうに書類へ戻る横顔を見て、わたくしは少しだけ笑いました。


 イザベラには審査の結果、亡命ではなく、王国へ戻って公正な審理を受ける道が示されました。送還にはヴェルデンの監察官を同行させ、拷問や裁判前の処罰を認めない確約も取りつけます。


 出発の朝、妹は馬車へ乗る前に振り返りました。


「どうして助けてくれないの」


「助けることと、逃げるお手伝いをすることは違います」


 彼女がそれを理解する日は、まだ遠いのでしょう。


 馬車が国境へ向かった直後、封印したはずの金庫の鍵が大公府へ差し戻されてきました。


 添えられていた王国会計院の書状には、こう記されております。


『当該金庫は公爵家の所有にあらず。故アッシュフォード公爵夫人が設立した北部救荒基金の保管庫につき、唯一の受託管理人セシリア・フォン・アッシュフォードへ返還する』


 母の鍵を掌に載せ、わたくしは即座に立ち上がりました。


「馬車を。今から王国へ戻ります」


(第12話へ続く)

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