私印で人は殺せません
王命書を読み終えたレナード殿下は、しばらく瞬きすらなさいませんでした。
「……これは、イザベラの印ではない」
「左様でございますか」
「偽物だ。あれが、このような命令を出すはずがない」
ご自身はわたくしを無理やり連れ戻すため、四十名もの兵を率いて国境を越えておきながら、妹君に限っては良識をお信じになれるそうです。
兄妹愛とは、たいへん都合よくできておりますこと。
わたくしは短剣の柄から取り出した細紙を、机の上へ広げました。
「では、照合いたしましょう」
イザベラは公爵令嬢として、王都の宝石商や仕立屋へ注文書を送っておりました。支払いはわたくしの管理していたアッシュフォード家の口座からでしたので、過去十年分の写しが手元にございます。
国境を越える際、持参してよかったと心から思える品の一つです。
もっとも、妹の浪費の記録を宝物と呼ぶつもりはございませんけれど。
ハンナが革張りの帳面を開き、三枚の注文書を並べました。
「去年の春の首飾り、夏の舞踏靴、冬の毛皮外套でございます。いずれもイザベラ様が直々にお選びになり、直々に印を押し、支払いだけはお嬢様へ回した品でございます」
「余計な説明は結構よ、ハンナ」
「事実を簡潔に申し上げました」
簡潔という言葉が泣いております。
けれど、印影は雄弁でした。
楕円の縁にある小さな欠け。中央の百合、その右側だけがわずかに潰れる癖。王命書の私印は、三枚の注文書と完全に一致しております。
さらに、紙には甘い薔薇の香りが残っていました。イザベラが手紙へ必ず焚き染める、南方産の香油です。
「まだ偽物とお考えになりますか」
「印を盗まれたのだ。香りも似せられる」
「では筆跡をご覧くださいませ。『拒んだ場合』の“拒”だけ、横線が上へ跳ねております。妹は幼い頃から、この字を直せませんでした」
レナード殿下の顔から、最後の血の気が引きました。
わたくしが妹の筆跡を知っているのは、愛情深い姉だったからではございません。
毎月届く請求書の署名を、十年間確認してきたからです。
浪費にも、ときには役立つ日が参りますのね。
「私は……連行せよとしか聞いていない」
「処刑命令をご存じなかったことは認めます。ただし、武装兵を率いて無許可で入領した責任まで消えるわけではございません」
エルネスト様が静かに告げると、殿下は椅子へ崩れるように腰を下ろしました。
「イザベラは、なぜそこまで……」
理由なら、おおよその見当はつきます。
わたくしが王国へ戻れば、アッシュフォード家の金庫が空であることも、鍵を使っていた者も、偽造保証の作成に誰が関わったかも明らかになります。
けれど、推測で罪を飾り立てる必要はございません。
「それを調べるのは王国の司法であって、わたくしではございません」
「イザベラを告発するつもりか」
「わたくしは事実を記録し、正式な経路で両国へ提出いたします。それを告発と呼ぶかどうかは、殿下のお好きになさいませ」
復讐なら、もっと簡単でしょう。
紙を隠し、妹が第二、第三の命令を出すのを待てばよい。あるいは内容を街角へばらまき、王家への怒りを煽ってもよい。
ですが、わたくしは何も壊しません。
偽りを偽りのまま帳面へ載せず、正しい欄へ戻すだけです。
その日のうちに、レナード殿下と同行した騎士全員から証言を取りました。
殿下へ渡された表向きの命令書には、国王陛下の正式な印が押されていました。ただし内容は『セシリア・フォン・アッシュフォードへ帰国を要請せよ』のみ。武力の使用も、拘束も認められておりません。
つまり殿下は、要請を命令へ、命令を侵入へ、ご自身の判断で育て上げたことになります。
妹はその鞍袋へ、密かに処刑命令を忍ばせた。
兄が暴走することを前提に、その先へ刃を置いたのでしょう。
レナード殿下には、証言書へ署名していただきました。拒否されるかと思いましたが、殿下は震える手でペンを取りました。
「……これを王都へ送れば、イザベラはどうなる」
「わたくしへ尋ねられても困ります。罪に罰を定めるのは、帳簿係の仕事ではございませんので」
夕刻、王国から戻ったハンナの情報網より報せが届きました。
イザベラの私印による処刑命令があったとの一報だけで、王都の商人たちはアッシュフォード家への掛け売りを一斉に止めたそうです。
仕立屋は未払いの衣装を回収し、宝石商は納品前の首飾りを競売へ回し、香油商は前金なしの注文を断った。
罪の裁定より先に、信用が裁定を下したのです。
わたくしは何一つ差し押さえておりません。
皆様が、ご自分の品を持って帰っただけでございます。
一方、ヴェルデンでは、この事件を契機に公文書の印章登録簿を整えることにいたしました。
これまでは印の形だけで真偽を見分けていたため、盗難や無断使用に弱かったのです。
そこで、印章ごとに使用者、使用目的、保管責任者を登録し、国外へ出す文書には発行番号を付けることにしました。国境の台帳にも同じ番号を記し、片方だけでは効力を持たせません。
さらに、印章の縁へ季節ごとに異なる細い封蝋紐を添えます。魔力を込めるほどの大げさな仕掛けではなく、色と撚り方を変えるだけですから、費用もわずかで済みます。
三日後、最初の登録簿が北門と大公府へ置かれました。
試験運用では、公文書の照合にかかる時間が四分の一まで短縮され、偽造された通行許可証が二通、その場で見つかりました。
「一枚の偽命令から、国境全体の安全を作るのか」
執務室で報告を読んだエルネスト様が、感心したように息をつかれました。
「穴を見つけたなら、塞ぐのが実務でございます」
「君自身を狙った穴でも?」
「わたくしだけを守る仕組みでは、次の誰かが落ちますもの」
エルネスト様は報告書を置きました。
それから、机越しではなく、わたくしの隣まで歩いてこられました。
「処刑命令を見たとき、怖くなかったのか」
「怖くないと申し上げれば、嘘になります」
数字は恐怖を整えてくれますが、消してはくれません。
あの短剣が抜かれていたかもしれない。兵の一人が命令へ従っていたかもしれない。そう考えるたび、指先が冷たくなりました。
「ですが、怖いからといって、選ぶ権利まで手放すつもりはございません」
「なら、私にも選ばせてほしい」
エルネスト様はわたくしの手を取りました。握り込むのではなく、掌を上へ向け、そこへご自身の指を重ねられます。
「君を閉じ込めて守ることはしない。君が危険へ向かうなら、止める理由を説明する。それでも行くと決めたなら、私は隣を歩く」
「大公殿下には、ずいぶん不利益な契約ですこと」
「すでに利益の計算は済んでいる」
「どのような?」
「君が無事に帰ってくる。それ以上の利益を、私はまだ知らない」
どうやらこの方は、合理主義という看板を下ろすおつもりらしいです。
困ったことに、わたくしは止めたいと思いませんでした。
「では、契約期間は一日ごとの更新で」
「短すぎる」
「信用は積み重ねるものでございます」
「承知した。毎日更新を申請しよう」
重なった指先が、ゆっくりと温かくなりました。
その夜、北門から鐘が三度鳴りました。
武装した侵入者ではなく、身分ある亡命希望者が到着した合図です。
わたくしとエルネスト様が門の広間へ下りると、泥に汚れた外套の女が衛兵の前に膝をついておりました。
女は顔を隠していた頭巾を払い、わたくしの名を叫びました。
「お姉様、お願い――わたくしを匿って!」
王都で裁きを待つはずのイザベラが、わたくしの足元に縋りついておりました。
(第11話へ続く)




