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第90話:理性を飛ばす匂いの暴力

 万年雪に閉ざされた霊峰の頂。そこにぽっかりと空いた、春の陽だまりのような異空間。

 俺の目の前にある巨大な結晶樹の枝には、燃え盛る炎を羽毛に変えたような、神々しくも美しい一羽の霊鳥が留まっていた。


『――なるほど。あの「原初の暴食」を浄化し、正気に戻したいと。貴方、人間にしては途方もないことを考えますのね』

 透き通るような声で語りかけてくる不死鳥のエターナ。


「はい。世界樹の葉と、うちの子が発酵させてくれた果実を使って、究極の特効スープを作ろうと思っています。

 でも、相手は要塞都市を丸呑みするほどのサイズです。どうやって飲ませればいいのか……

 そもそも、なぜあんなに狂乱してしまったのか、過去の生態を知りたくて伺いました」


 俺がそう切り出すと、エターナは「ふふっ」と、鈴を転がすような笑い声を脳内に響かせた。


『貴方のその本気の目、嫌いではありませんわ。……込み入ったお話になりそうですし、ゆっくりとお茶会とまいりましょう。

 お客様を迎えるのに、この姿のままでは不作法ですものね』


 エターナがバサリと炎の翼を広げた瞬間、周囲の空気が甘く揺らいだ。

 彼女の体を包み込んでいた炎が、まるでドレスを織り上げる糸のように絡み合い、形を変えていく。まばゆい光が収まった後、枝からふわりと地面に舞い降りたのは――炎のように揺らめく夕日色のドレスを纏った、絶世の美女だった。


「長老! じゃなかった、エターナちゃーん! 相変わらず人間モードも綺麗だわヨォン!」


「ええ、ありがとうジェイド。貴方も相変わらず騒々しくて優雅さに欠けますわね。

 さあ、お座りなさいな、エルヴァン。……さて、長旅でお疲れでしょう。美味しいお茶でもいかがかしら?

 ああ、ジェイドたちも。お茶会をするなら、小さくなりなさいな」


 エターナに促され、三柱の古竜たちはポンッと軽い音を立てて次々にその巨体を縮小させた。

 ジェイドは頭のハイビスカスを揺らす手のひらサイズの緑竜に。

 ゼノスは黒曜石のような鱗を持つミニサイズの黒竜に。

 そしてファルは純白の毛をなびかせる巨竜から、俺のポケットにすっぽり収まるいつもの「もふもふネズミ」の姿へと変わった。


「そうねェン! ティータイムは優雅じゃなきゃヨ!」


「……やむを得ん」


「ファル、お茶請けも欲しいの! 甘いものがいいのー!」

 

 姿が小さくなっても口調が変わらないジェイドやゼノスに対し、ファルはお爺ちゃん口調から完全に舌足らずな幼児口調へと切り替わっている。

 俺はすかさず背負っていたリュックを下ろした。


「それなら、俺に用意させてください。せっかくですから、最高の一杯をお出ししますよ」


 俺は素早く携帯用の魔導コンロを組み立て、霊峰の澄み切った雪解け水を沸かす。そして、王都軍務局の特務調査官ユリウスから「猫ちゃんたちを撫でさせてくれたお礼」として押し付けられた、最高級の茶葉を取り出した。


 熱湯でポットを温め、茶葉の香りを最大限に引き出す絶妙なタイミングで湯を注ぐ。

 エターナには上品なティーカップ、そして小さくなった古竜たちには、彼らが飲みやすい小ぶりの陶器に、たっぷりと淹れたてのお茶を用意した。


「どうぞ。標高が高いので沸点が少し下がっていますが、その分、茶葉の甘みが引き立っています。お茶菓子には『マーブル・マッシュの塩バタークッキー』を添えました」


「まあ。手際が見事なだけでなく、この素晴らしい香り。……いただきますわ」

 エターナは白磁のカップを優雅に持ち上げ、一口ゆっくりと味わう。その瞬間、彼女の美しい顔に、ふわりと至福の笑みが広がった。


 ファルも小さな両手でカップを抱え込み、「ふーふー、なの!  はむっ……お菓子もおいしいのー!」と目を細め、ゼノスも「……悪くない香りだ」と無言ながらも満足げに喉を鳴らしている。

 ジェイドに至っては「アァン、このクッキー最高にエレガントだわヨォン!」とご機嫌だ。


 お茶会が和やかな雰囲気に包まれたところで、俺は浄化作戦の鍵となる「世界樹の果実」を取り出した。ノワールの体内で発酵し、完熟を越えたその実は、独特の芳醇で濃厚な香りを放っている。


 すると、その香りを嗅いだ瞬間、エターナの動きが止まった。


「……あら。まあ、なんて懐かしい香りかしら」

彼女はそっと実に手をかざし、遠い目をして微笑んだ。


「太古の時代……まだ世界樹が完全な姿で大地に根を張り、黄金の実が豊富に実っていた頃を思い出しますわ。

 当時はノワールさんのような、実を体内で発酵させる力を持った聖獣たちがたくさんいたのです。わたくしたちは、その発酵した実を丁寧に煎じて、コーヒーのようにして飲んでいたものですわよ」


「世界樹のコーヒー……!?」


 料理人としての好奇心が、俺の背筋を駆け抜けた。

 あの世界樹の果実を煎じて飲む。想像しただけで、どれほど深く、神秘的な味わいがするのか、涎が出そうになる。


「ええ。それはもう、大変美味でしたわ。一度飲めば魂が洗われるような、至高の一杯。

 ……今の時代にも、それを再現できる子がいたなんて、驚きましたわ」


「飲んでみたい……めちゃくちゃ飲んでみたい……!」


 俺は思わず拳を握りしめた。しかし、次の瞬間、拠点で虚無の目をして横たわっていた漆黒の山猫ノワールの姿が脳裏をよぎった。


「(でも、そのためにはノワールにまたあの実を大量に食べさせて、体内で発酵させてもらわなきゃいけないんだよな……。

 いや、でも彼女は『乙女の純情が……』って絶望してたし、これ以上強要したら今度こそ俺、ノワールに暗殺されるんじゃ……)」

 葛藤する俺の肩を、ファルがペチペチと叩いた。


「エルヴァン、だめなの! ファルわかるの……今のノワールにそれ言ったら、おうちがドカーンって木っ端微塵になっちゃうの!」


「……同感だ。あの猫の殺気は、小さくなった我でも背筋が凍るものがある。主よ、命は大事にしろ」


 ゼノスまでが真面目な顔で忠告してくる。さらにはジェイドまで。


「坊や、女の恨みは一生ものよォン!

 悪いことは言わないから、今はスープの分だけで勘弁してあげなさいナ」


「……ですよね」

俺は深く溜息をつき、世界樹コーヒーへの未練を心の奥底に封印した。いや、しかし……


「さて。お茶を楽しんだところで、本題に入りましょうか」

エターナは扇で口元を隠し、表情を引き締めた。


「『原初の暴食』が狂乱した理由……。それは、あの子が本来、大地の穢れを食らい尽くす『世界を浄化する者』だったからですわ。

 かつて西方の城塞国家ガレリアで行われていた『星の猛毒』の研究。あの子は世界を守るため、その毒を都市ごと丸呑みしたのです」

 エターナの語る真実は、俺たちの想像を絶するものだった。


「ですが、その毒は余りにも邪悪すぎた。神に近いあの子でさえ消化しきれず、猛毒による高熱で理性を失い、永遠の『腹痛』に苦しみながら暴走している……。それが今の姿ですわ」


「……とんでもなく重症な食あたり、ということですね。なら、なおさら俺のスープで治してやらないと」

 俺の決意に、エターナは満足げに頷き、具体的なアドバイスをくれた。


「あの子は本来、誰よりも食を愛する美食家。捧げられた至高の供物の一滴すら逃さず味わうため、自ら人の姿や小さな竜へと身をやつすという伝承があるほどです。

 ですから貴方が為すべきことは一つ。『丸呑みするには惜しい、これは何としても一滴残らず味わわねばならぬ』と、狂乱の底にある本能に訴えかけるほどの……圧倒的な【匂いの暴力】を叩きつけることですわ」


「匂いの、暴力……」


「西の果てにある『轟音の煙突洞窟』。あそこの反響効果なら、匂いを風に乗せて遠くまで拡散できます。最奥でスープを仕込んだ巨大な肉を焼き上げ、その香りで誘い出すのです」


 俺の頭の中で、完璧な作戦図が完成した。

 巨大な肉の中でスープを蒸し焼きにし、肉の焼ける香ばしさと果実のアロマを爆発させる。


「よし、ファル、ゼノス、ジェイド。作戦は決まった。あとは、その作戦の『器』となる、最高に巨大で極上の魔物の肉を調達するだけだ」


 俺の言葉に、小さくなった三柱の古竜たちの瞳の奥に、最上位の狩猟者としての獰猛な光が宿った。


 神とも言える存在の腹痛を癒やすための究極の料理。

 そのための前代未聞のクッキング・ハントが、今ここから始まろうとしていた。

◆◆◆◇◇◇◆◆◆


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