第74話:気高き(?)ボスの受難
先ほどまで俺たちを囲み、嘲笑の声を上げていた百頭近いナイトメアたちは、今や一様に前足を折り、深い闇に溶け込むようにして頭を垂れていた。
その視線の先にいるのは、青い炎を静かに揺らめかせる一頭の黒馬――シリウスだ。
『……えっと。なに、これ?』
当のシリウス本人は、周囲の異様な恭順ぶりに完全に戸惑っていた。
その時、地面に倒れ伏し、口から白い泡を吹いていた巨大なボス・ナイトメアが、「ハッ!?」と身をよじって目を覚ました。
ボスは焦点の合わない目で周囲を見回し、やがて目の前に立つシリウスの姿を捉えた瞬間、全身の毛を逆立ててビクゥゥゥッ!! と硬直した。
『ヒ、ヒィッ……!』
もはや立ち上がる力すら残っていないのか、ボスは生まれたての小鹿のように四肢を震わせている。
シリウスが、パカッ、パカッ、と蹄の音を鳴らしてボスへと歩み寄った。
すると、その進路上にいたナイトメアたちは、まるでモーセの海割りのように、慌てて左右へと道を空けたのである。
『ねえ。他の子たち、ずっと頭下げてるんだけど。君がやめさせてよ』
シリウスがボスを見下ろして言う。その口調は至って普通のお願いだったが、ボスにとっては死刑宣告のように聞こえたのだろうか。
ボスはガチガチと歯の根を鳴らしながら、周囲に控える群れに向けて声を張り上げた。
『き、貴様らッ……! 何をしている、下がれッ!!』
しかし――誰一人として、ボスの言葉に従う者はいなかった。
ナイトメアたちは微動だにせず、ただひたすらにシリウスへと頭を下げ続けている。
『な、なぜだ……っ! なぜ私の命令を聞かんのだ!』
困惑と絶望に顔を歪めるボス。
「……なるほど。どうやら、ボスの『交代』があったみたいだな」
俺が口を開くと、シリウスが不思議そうに振り返った。
『ボスの交代?』
「ああ。魔物の世界では、自分より強い者に従う種族が多い。ナイトメアもその類いなんだろう。
今、群れの絶対的なリーダーだったボスが、お前に完全に打ち倒された。
群れの意志は、勝者であるお前を『新しいボス』として認識したんだよ」
『ええ!? で、でも、僕はただエルヴァンたちとの幸せな夢を見せただけで……、力勝負をしたら僕が勝てるかどうかなんて分からないよ?』
シリウスは困ったようにたてがみを揺らす。
「いいや、お前の勝ちだ。ナイトメアの精神攻撃《悪夢》は、自分よりも精神力が強い者、あるいは明確に格上の相手には効きにくいって聞いたことがある。
お前がボスに、あのショック死寸前の『悪夢(幸福な夢)』を見せられたということは、お前の精神と強さが、すでにボスを凌駕しているという決定的な証拠なんだよ」
『……僕の、強さが』
シリウスが、再びボスへ視線を落とした。
ボスはびくんっ! と大仰に体を震わせ、シリウスと目が合うのを恐れるように、ぎゅっと目を伏せた。
シリウスはそのまま、周囲に控えるナイトメアたちをぐるりと見渡した。
目が合いそうになるだけで、ナイトメアたちは「ヒィッ」と小さな悲鳴を上げてさらに深く頭を下げる。
『……えっと、みんな。少し下がっててくれないかな?』
お願いとも、命令ともつかないような、柔らかい口調。
だが、その言葉は絶対だった。ナイトメアたちは頭を下げたまま、這うようにして後ずさりし、瞬く間に宵闇の森の暗がりへと消えていった。
ポツンと取り残されたボスも、ズリズリと這いずりながら後退しようとしているが、恐怖で足が完全にすくんでおり、数センチしか進めていない。
『あ、君はそのままでね』
シリウスが告げると、ボスは「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、再び地面に顔を擦り付けた。その背中は、まるでこの世の終わりを迎えたかのように小さく、哀愁が漂っていた。
『勘違いしないで。僕は、この群れの新しいボスになるつもりなんてないんだ』
シリウスの言葉に、ボスの耳がピクリと動いた。
『僕は、エルヴァンの側に居たい。このままエルヴァンやみんなと一緒に、外の世界をもっとたくさん見て回りたいんだ。だから、ここには残らないよ』
その言葉を聞いた瞬間、ボスは『何を馬鹿なことを! 群れの頂点に立つより、人間のペットでいる方がいいと言うのか!』と叫んだ。
――しかし。
それは口を出ることはなかった。
眼前に立つ青い炎を纏うシリウスが恐ろしすぎて、声帯を満足に動かすことも、念話を飛ばすことすら出来なかった。
『……』
『……』
ボスが沈黙したままなので、変な間が空いてしまった。
無視されていると思ったのか、シリウスが少しイライラしたように前足で地面を掻いた。
『ちょっと、聞いてるの? 何か喋ってよ!』
『ヒギィィィッ!?』
ほんの少し声が大きくなっただけだというのに、ボスは情けない悲鳴を上げ、大粒の涙をボロボロと流し始めた。
さらに悪いことに、ジョワァァァ……と、ボスの股ぐらから温かい液体が流れ出し、土を濡らしていく。完全に失禁していた。
(……さすがに、ちょっと可哀想だな)
誇り高き群れのボスが、かつて追い出した弱者にここまでの恐怖を抱き、漏らして泣いているのだ。俺はどうにもいたたまれない気持ちになった。
「まあ、そう怯えるな。シリウスが言った通り、俺たちはすぐにここから立ち去るから」
俺は敵意がないことを示すため、ゆっくりと近づき、ボスの首元を撫でて落ち着かせようと手を伸ばした。
――だが、それが悪手だった。
『人間ふぜいが、気安く触るなァァァッ!!』
極限状態にあったボスの理性が、完全に焼き切れた。
シリウスへの恐怖の裏返しとして、一番弱そうに見えた俺へ向けて、最後の力を振り絞った後ろ足での強烈な蹴りを放ってきたのだ。
俺の顔面に、巨大な蹄が迫る。
「危な――ッ!」
『やめろッ!!』
俺が回避行動をとるよりも早く。
シリウスの瞳に、再び爆発的な青い炎が宿った。
黒い閃光が走る。シリウスはボスの蹴りの軌道へ自ら飛び込み、俺に届く寸前のボスの足を、強烈な体当たりと蹴りでカチ上げた。
ドゴォォォンッ!!
強烈なカウンターを受けたボスは、宙を舞い、地面を派手に数回転がって木に激突した。
だが、それだけでは終わらない。
「ガァァァァァッ!!」
怒髪天を衝く勢いで飛び出してきたのは、ファルだった。
「一日に二度も! エルヴァンに手を出そうとしたな! 絶対に許さない!!」
ファルは転がったボスの首元に飛び乗り、竜の爪で押さえつけ、首を噛み千切ろうとした。
「わーっ! ストップ、ストップだお前たち!!」
俺は慌てて二頭の間に割って入り、ボスの首に噛みつくファルを引き剥がし、青い炎をたぎらせるシリウスの首に腕を回した。
「怒るな。今のは完全に俺が悪かったんだ」
『でも! あいつ、エルヴァンを蹴ろうと!』
「いいか? 動物っていうのは、極限まで怯えている時に迂闊に触ろうとすると、意図せずパニックになって襲いかかってくることがあるんだ。
テイマーとして、俺の配慮と観察が足りなかった。だから、お前たちもいったん落ち着け。な?」
俺が二頭を優しく撫でながら諭すと、シリウスの青い炎はスッと収まり、ファルも「むー」と不満げに鼻を鳴らしながら俺の後ろに下がっていく。
二人とも、本当に俺のことを大切に思ってくれているのが伝わってきて、少しだけ胸が温かくなった。
「……はぁ。なんて、素敵なのでしょう」
ふと視線を感じて振り返ると、セリアが胸の前で両手を組み、うっとりとした表情でこちらを見つめていた。
艶々な肌をさらに紅潮させ、その瞳はきらきらと星のように輝いている。
「あんなに恐ろしい魔物たちを、一瞬で制止して優しく諭すなんて……やっぱりエルヴァンさんは、世界一のテイマーですっ!」
「あ、いや……今のは俺のミスが原因だから、そんな褒められるようなことじゃ……」
「いいえ! その慈愛に満ちたお姿、この目にしっかりと焼き付けました!」
セリアのテンションがおかしい、俺の一挙手一投足がすべてフィルターを通して見えているようだ。
俺が居心地の悪さに頬を掻いているその後ろで、
『……ガクッ』
蹴り飛ばされ、竜に噛みつかれ、そして目の前で人間のイチャイチャを見せつけられたボス・ナイトメアが、ついにキャパシティを限界突破し、白目を剥いて再び気絶した。
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