第73話:宵闇の森のナイトメア(後編)
シリウスの堂々たる咆哮が森に木霊した後、一瞬の静寂が落ち、やがてそれは無数の嘲笑へと変わった。
『ヒヒィン! 聞いたか、あの泣き虫が!』
『我らの恐怖を食らえず、甘い夢に逃げていたあの出来損ないが、いっぱしの口を叩くようになったものだ!』
闇の中から響く嘲りの声。彼らにとって、かつて群れを追い出されたシリウスは、どこまでも弱く惨めな存在として認識されているらしい。
ざわめきが割れ、木々の奥から一頭の巨大なナイトメアが悠然と姿を現した。
シリウスよりも一回りは大きく、筋骨隆々とした体躯。たてがみと蹄からは、禍々しい赤黒い炎が猛烈な勢いで噴き出している。
『……群れの、ボスだ』
シリウスが警戒心を露わにして低く唸る。
ボス・ナイトメアは、見下すような視線を俺たちに向け、鼻を鳴らした。
『人間のペットになり下がり、牙を抜かれたか。我らナイトメアの面汚しめ』
『……さっきの、エルヴァンに対する侮辱を取り消せ』
シリウスは一歩前へ出た。その四肢は、過去のトラウマからか、あるいはボスの放つ圧倒的な威圧感からか、微かに震えている。それでも、俺たちを庇うように立つその背中は、決して退こうとはしていなかった。
『取り消せ、だと? 愚弄しているのは貴様の方だ!』
ボスは激昂し、地面を蹄で強く蹴りつけた。
『そのような脆弱な人間、私が一息で狂気の淵へ沈めてくれるわ! 貴様もろとも、この森の塵となるがいい!』
ボスの言葉と同時に、シリウスの瞳から青白い炎がごうっと溢れ出した。恐怖を克服し、守るべき者のために点火された決意の炎だ。
シリウスの全身から放たれる炎が、瞬く間に膨れ上がり、彼の体を包み込んでいく。
だが、奇妙なことが起きていた。
激しい言葉を吐き、今にも飛びかかってきそうなボス・ナイトメアだったが、その足はピタリと止まっていたのだ。
いや、止まっているのではない。よく見れば、ボスの太い脚はガクガクと小刻みに震え、漆黒の体表からは滝のような脂汗が流れ落ちている。
シリウスが、一歩、また一歩と静かに足を踏み出す。
『やっちまえ!』
『その忌み子に、我らの真の恐怖を教えてやれ!』
周囲に潜む見えないナイトメアたちが、無責任にボスを煽り立てる。その声援を受けるたび、ボスのまとう赤黒い炎は激しくうねり、狂ったように乱高下していた。だが、それは闘志の高まりというよりも、極度の動揺を隠すための虚勢にしか見えなかった。
シリウスとボス、両者の距離がじりじりと縮まっていく。
シリウスの纏う青い炎と、ボスの放つ赤い炎が、互いの領域を侵食し合う。
そして、二頭が真っ向からぶつかり合う、まさにその瞬間だった。
「……え?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
突撃の姿勢をとっていたはずのボスの次の足が、出なかったのだ。それどころか、ボスの巨大な体は白目を剥き、糸の切れた操り人形のように、その場にドサリと崩れ落ちてしまった。
地響きを立てて倒れたボスは、口から白い泡を吹き、完全に意識を失っている。
「……何が、起きたんだ?」
俺が呆然と呟くと、当の本人であるシリウス自身も、ポカンと口を開けて倒れたボスを見下ろしていた。
『えっと……戦う前に、僕の「夢」をあいつの頭に流し込んだんだけど……』
シリウスの念話は、ひどく困惑していた。
ナイトメアの最大の武器は、相手に精神干渉を行い、恐ろしい悪夢を見せることだ。シリウスもまた、その力をボスに対して行使したらしい。
『僕はただ……エルヴァンたちに出会ってからの、毎日ご飯が美味しくて、ファルやみんなと遊んで、頭を撫でてもらって……そういう「僕の一番幸せな夢」を見せただけなんだけど……』
なるほど、理解した。
恐怖と絶望、他者の負の感情を糧として生きる純粋なナイトメアにとって、シリウスの見せた「無償の愛」や「陽だまりのような温かい日常」「種族を超えた友情」といった概念は、もはや理解の範疇を超えた劇薬だったのだ。
彼らの常識からすれば、それは「あり得ない、おぞましすぎる光景」であり、致死量のショックを与えるに十分な、トンデモない精神攻撃として作用してしまったらしい。
言うなれば、暗闇でしか生きられない深海魚に、真夏の太陽の光を直視させたようなものだ。ボスは、そのあまりの「幸福のオーラ」に耐えきれず、ショックのあまり昇天してしまったのである。
森は、水を打ったように静まり返っていた。
先ほどまでボスを煽り立てていた声は完全に消え失せ、不気味なほどの静寂が支配している。
やがて——ガサリ、と木々が揺れる音がした。
ぞろぞろと、周囲の茂みや暗がりから、無数のナイトメアたちが姿を現した。その数は、ざっと見て百頭近くはいるだろう。
敵の総攻撃か。
シリウスは倒れたボスを乗り越えるようにして前に立ち、ファルも喉を鳴らしていつでも炎を吐けるよう身構えた。
セリアを抱える手に力がこもる。
しかし。
百頭のナイトメアたちは、誰一人として殺気を放っていなかった。
彼らは俺たちの周囲をぐるりと取り囲むと、一斉に、その前足を折り曲げた。
そして、最も恐ろしく、理解不能な未知の力で、自分たちの絶対的指導者であったボスを一瞬にして打ち倒したシリウスに対し、深く、深く頭を垂れたのである。
『……えええ?』
シリウスの戸惑う声が響く。
宵闇の森を支配する悪夢の軍団。その頂点に立ったのは、かつて群れを追われた、優しき異端児のナイトメアだった。
腕の中で、目を覚ましたのか、セリアが幸せそうな顔をして、俺を見つめていた。
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