第46話:飢えた漆黒の暗殺者
ペガサスの住処である岩山を下り、俺たちは教えられた深い森の中を歩いていた。
ニーナの足取りは重い。彼女はプルちゃんを抱きしめたまま、先ほどのペガサスに言われた「血を見る覚悟があるのか」という厳しい問いかけを、ずっと反芻しているようだった。
「……あ、マスター。あそこに……」
不意にニーナが立ち止まり、森の奥の茂みを指差した。
そこには、一匹の大型の獣がうずくまっていた。
真っ黒で、艶やかな短い被毛。チーターのようにすらりとした四肢と、しなやかな体躯。凄まじい瞬発力を秘めているであろう筋肉の付き方と、鋭い爪と牙。それはまさに、森の暗殺者と呼ばれるにふさわしい凛々しく気高い魔物、『クァール』の姿だった。
――しかし。
そのクァールの体は、痛々しいほどに痩せ細っていた。本来なら美しいシルクのような毛並みもパサパサで、あばら骨が浮いて見えるほどにガリガリだ。
「……グルル……」
クァールは地面に落ちていた、酸っぱくて他の動物が見向きもしないような木の実を、前足で器用に転がしながら、悲しそうな顔で齧っている。
どう見ても、誇り高き肉食獣の食事風景ではない。
「マスター……あの子、すごくお腹を空かせてます……!」
「ああ。少し、声をかけてみるか。シリウス、警戒だけは怠るなよ」
『ブルルッ!(わかった、エル!)』
俺たちがゆっくりと近づいていくと、木の実を齧っていたクァールがビクッと肩を揺らし、こちらを振り向いた。
鋭い金色の瞳と目が合う。臨戦態勢か、と俺が身構えた次の瞬間。
『ニャ、ニャァァァン……ッ(ひぃぃっ、ごめんなさい! どんぐり返すから叩かないでぇぇ……!)』
威嚇の咆哮とは似ても似つかない、完全に怯えきった「家猫」のようなか細い鳴き声が森に響いた。
クァールは長い尻尾を両足の間に巻き込み、耳をペタンと伏せて、地面に平伏してガタガタと震えている。
「……えっと。叩かないし、どんぐりも取らないから安心してくれ。俺たちはペガサスから、君の話を聞いてきたんだ」
『ニャッ?(えっ、にんげん、ぼくの言葉わかるの?)』
俺がテイマースキルで語りかけると、クァールは丸い瞳をパチクリとさせた。
見た目は完全に凶悪な黒豹なのに、仕草が完全に人懐っこい飼い猫のそれである。
「ああ、わかるぞ。君は群れを追放されたと聞いたけど……その、なんでそんなに痩せてるんだ?」
『……ぼ、ぼく……狩りができないんだニャ』
クァールは恥ずかしそうに視線を逸らし、ぽつりぽつりと身の上話を始めた。
『群れの仲間たちは、ホーンラビットとかを狩って食べるんだけど……ウサギさん、おめめがクリクリで、お耳が長くてフワフワで……あんなに可愛い生き物、ぼくには絶対に噛みつけないニャ……』
「……え?」
『だからいつも狩りの途中で逃がしてたら、ボスの逆鱗に触れて……「お前のような軟弱者はクァールの面汚しだ!」って、群れから追い出されちゃったんだニャ……。それからずっと、他の動物の食べ残しとか、木の実しか食べてなくて……お腹すいたニャ……』
きゅるるるる〜……と、巨体に似合わない情けない腹の虫が鳴る。
優しすぎて獲物を狩れない肉食獣。しかも、味がどうこうではなく「ウサギの見た目が大好き=モフモフ至上主義」という理由で。
「……マスター。私、あの子の気持ち、痛いほどわかります」
「ニーナ……」
ニーナはポロポロと涙を零しながら、クァールの元へと駆け寄り、その細い首筋にギュッと抱きついた。
「辛かったね、お腹空いたよね……! ウサギさんが可愛いのは当たり前だよ、あなたは何も間違ってないよ……!」
『ニャン!?』
突然抱きつかれてパニックになるクァールだが、ニーナの温もりと優しさに触れ、次第にその巨体を彼女にすり寄せるように甘え始めた。ゴロゴロと喉を鳴らす音は、もはや完全に巨大な黒猫だ。
「よし、事情はわかった。それなら、まずは腹ごしらえだな」
俺は背負っていたリュックを下ろした。
長期間飢餓状態にあった胃袋に、いきなり生肉を入れるのは危険だ。俺は携帯用の魔導コンロを取り出すと、干し肉と野菜を細かく刻み、持参していた出汁の粉末と一緒に煮込んで、胃に優しい温かい特製スープを作り始めた。
「ほら、熱いから少しずつ食えよ」
『ニャァァァーッ!!(お肉!! しかもすごくいい匂いがする温かいスープなのニャ!!)』
器に出してやると、クァールは泣きそうな顔でスープを舐め始めた。
よほど美味しかったのか、あっという間に平らげてしまい、食後にはニーナの膝に頭を乗せて「ゴロゴロゴロ……」と至福の表情で喉を鳴らしている。
シルクのような短い毛並みをニーナが優しく撫でてやると、クァールはうっとりと目を閉じた。
「マスター……私、この子を相棒にしたいです。絶対に、この子と一緒に強くなってみせます」
ニーナの瞳には、先ほどまでの迷いは消え、強い決意の光が宿っていた。
ペガサスが言っていた『戦場で血を流す覚悟』。
それはただ戦うことではない。「自分の大切なもの(優しき相棒)を守るために、自分が盾になる」という覚悟。ニーナは今、この腹を空かせたクァールを守りたいと、心から願ったのだ。
「……ああ。いいんじゃないか。君はどうだ? ニーナの相棒になってくれないか」
『ニャッ?(ぼくが、この優しい女の子の相棒に?)』
クァールはパチクリと目を瞬かせ、それからニーナの顔をじっと見つめた。
そして、その大きくてザラザラした舌で、ニーナの頬をペロリとひと舐めした。
『ニャァン!(うん! ぼく、この子とずっと一緒にいたいニャ! ご飯も美味しいし!)』
「やったぁ! ありがとう、よろしくね!」
ニーナは満面の笑みでクァールを抱きしめ、プルちゃんも嬉しそうにその背中で飛び跳ねている。シリウスも『ブルルッ!』と優しく鼻を鳴らした。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ギルドハウスの中庭では、大掛かりな「クァールのお風呂作戦」が決行されていた。
「よし、もっと泡立ててくれニーナ! 汚れがこびりついてるぞ!」
「はい、マスター! わぁ、すごく毛がふわふわになってきました!」
『ニャァァ……(あったかいお湯、気持ちいいのニャァ……極楽ニャァ……)』
俺とニーナは、専用の魔物用シャンプーをたっぷり使い、長年の森の生活で薄汚れ、葉っぱや小枝が絡まりまくっていたクァールの体を念入りに洗い流していた。
泥と汚れが落ちると、本来の艶やかで真っ黒な被毛が姿を現す。手触りは本当に最高級のシルクのようで、撫でているこちらまで癒やされるほどだ。
『ふむ……新しい新入りか? 我の眠りを妨げぬよう、静かにな』
『ニャッ!?(ひぃぃっ!? すっごくおっきくて強そうな竜のお爺ちゃんがいるニャ!?)』
庭の隅で丸くなっていたファルが片目を開けて声をかけると、クァールはビクッと体を竦ませて俺の後ろに隠れた。本当に、見た目の凶悪さと中身の小心者っぷりのギャップが凄まじい。
「大丈夫だ、ファルは普段はずっと寝てるただのお爺ちゃんだから。それにしても、名前はどうする? ニーナ」
「うーん……そうだなぁ。真っ黒で夜の森みたいだから……『ノワール』はどうですか?」
『ニャン!(ノワール! かっこいい名前ニャ! 気に入ったニャ!)』
クァール改め『ノワール』は、嬉しそうに長い尻尾をゆらゆらと揺らした。
美味しいご飯と温かいお風呂、そして何より「自分を否定しない優しい家族」。ノワールにとって、ここでの生活は間違いなく天国だろう。
「よし、それじゃあ今日からよろしくな、ノワール。……さて、たくさん洗ってお腹も減っただろう。今日の夕飯は奮発して、特大の鹿肉のローストだ!」
『ニャァァァーーッ!!(バンザーイ!! マスター一生ついていくニャ!!)』
ノワールが歓喜の声を上げ、シリウスとプルちゃんも一緒になってはしゃぎ回る。
幻獣の洗礼から始まった長い一日は、こうして、真っ黒で甘えん坊な新しい家族を迎えるという、最高の結末で幕を閉じたのだった。
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