兄がいないとおかしい
前日、遅くまでゲームをしていた初雪が、なんとか遅刻せずに済みそうなギリギリのタイミングで目覚める。
ともすれば二度寝をしそうなものだったが、それを防いでくれたのは女児向け雑誌「ゆかいな幼稚園」の付録として付いていたフリキュア目覚まし時計である。これがなければ、寝過ごしていた。
中学三年生なので、当然、幼稚園には行ってないし、中学生向けの本でもない。でも、初雪はフリキュアの付録目当てで、その本を購入した。そしてせっかく購入したのだからと内容も読んで、ぬり絵にも色をぬった。
ついでに懸賞にも応募したので、もしかすると当選するかもしれない。賞品は小さな子供用のパジャマだから、当たったらお兄ちゃんにでも着させようと考えていた。あるいはアンヨに渡すのが正解だろうか。
ともあれ、お気に入りのキュアインソムニアボイスによる『ぐっすり眠れるなんて、あなたがうらやましい……憎いくらいにね!』という、後半ちょっと怖い目覚まし音声のおかげでまだ学校には間に合う。
急いで支度をすると、兄が朝食を用意しているであろう階下へ向かい━━が、この時、初雪はある事を失念していた。
本日、兄は早出だったのだ━━。
テーブルに兄の姿はなかった。ラップのかかった朝食が、初雪の分だけ並んでいたけど、作った人がどこにもいない。
代わりに、箸置きの横に手紙が添えられていた。それを見てから、ようやく思い出す。
「だった! お兄ちゃん、今日から修学旅行だった!」
前日も散々言われていたはずである。それでもなお失念してしまったのは、はっきり言って興味が足りなかったから。自分の修学旅行ならいいが、兄の修学旅行は兄が楽しむものなので、自分にはそれほど関係ない。そう思っていたのだが、いざ兄がいないとわかると、どうしてか寂しさを感じてしまう。そして、今日から数日の朝食や夕飯は、自分でどうにかしなくちゃいけないということに、今やっと気がついた。いざその時になるまで実感が持てないのは、悪いクセだった。それは自分でもわかっている。
熱がだいぶ抜けた目玉焼き。いつもより十五分程度だけど、早く家を出ると兄は言っていた。きっとギリギリまで待っていてくれたのかもしれないけれど、初雪が起きてこなかったので、無理に起こすこともせず、一人で出かけたのだろう━━自分の修学旅行の時にはお小遣いを渡しに帰ってきた父も、今回はきていない。予想はしていたので、それでは兄があまりにもかわいそうだと思った初雪が兄に十万円のお小遣いを渡していた。
エイチシステム━━ゲームの中で稼いだリアルマネーから、兄へのお裾分けでもあった。
バイトで多少の稼ぎはあった兄ではあるが、それでも当初予定していたお小遣いでは、やはり心もとなかったようで、涙を流して喜んでいた。
実際どうかは記憶にないが、涙を流していたような気がする。なんとなく。雰囲気的に。
旅行先が沖縄だという兄は「絶対お土産買ってくるから、楽しみにしてろよ」と言っていた。
先週の話であるが、なにか買ってきてほしいものはあるかと訊かれた初雪だったけれど、沖縄についてはさほど詳しくなく、特になにか(フリキュアグッズ以外には)欲しいものが思い浮かばずに「えーと、じゃあ……サトウニ……サトニシキ……なんとかと、ちんこ吸う? それにシースーみたいな、そんなやつとかでいいよ。あとハブだっけ?」という無茶苦茶いい加減な対応をしていた。
「なんで寿司みたいな名前……あと『ちんすこう』は絶対に間違えるな。間違えてもせめて他の間違いかたにしろ」と注意された。
なので何を買ってきてくれるのかは、ある意味楽しみだ。まったく予想がつかなくて、逆にワクワクする。
「はぁ……お土産は楽しみだけど、ご飯どーしようか」
とりあえず箸置きの隣にあった置き手紙を拾って、広げてみた。
『ぜんぜん起きてこないから、もう出かけます。あとはなんとかやってください。四日後に帰ります』
とのメッセージが書かれていた。
もう、四日後まで兄は帰ってこない……これはいよいよ、ピンチである。
ご飯の用意はもちろん、お風呂の用意もしなくちゃいけない(両親不在の間は、ほとんどの家事を兄がやっている)。ゴミ出しとか、掃除もやらなくちゃだし……どうしよう?
セニョールを呼ぼう!
と思ったけど、さすがに人造人間とはいえ黒人男性と二人きりで暮らすのは、なんかいやなものがある。兄がいれば大丈夫なのだが、いないとなるとなんかいやだ。
これはもう、気持ちの問題だから仕方ない。
解決策は決まらなかったけれど、遅刻が決定しそうだったので、とりあえず朝食をかきこんで洗い物をシンクに置き、そのままにして出かける。
戸締まりを忘れたことに気がついて、慌てて戻ると玄関にカギをかけて、猛ダッシュした。
兄がいないだけで、やることがありすぎる。普段やっていないことが多すぎるというだけなのだが、今は考えている余裕もない。
走らなければ、間に合わなかった。
*****
その日の体育の授業には、なぜか知らないが地元サッカーチーム・闇谷ポイズンアローの選手である藤善目多郎さんがやってきていた。サッカースクールのような内容の授業で、男子も女子も楽しんだ。
最後には試合(とは言っても、人数は滅茶苦茶な振り分けだが)が行われたので、初雪はサッカー部のエースである山田隆丸からボールを奪うと、そのまま十三人(正式な人数より多いが仕方なかった)を神業ドリブルで華麗に抜き去ると、ゴール左方向の厳しい角度から利き脚ではない左足を振り抜いて、ゴール右すみにシュートを決めてみせた。
「えっ……うそだろ」サッカー部のエース、山田が呆然と立ち尽くしている。
「うわ、すげえな今の! メッシー並じゃねえのか⁉」
世界最高とも言われるプレイヤーの名前すら出して、藤善選手も驚愕した。
「やったー! ユキちゃんの勝ちですねー!」
ルールを知らない梨理夢が喜んで跳びはねると胸が揺れるので男子たちは目が釘付けになるし前屈みにもなった。
「見よう見まねだけどね。身体がかってに動くのである━━わたし天才だから」
そんな初雪に近づいて、藤善選手が問うた。
「きみ、女子サッカー選手?」
「うんにゃ、女子アイドル歌手選手です」まだデヴューしていないにも関わらず、そう言った。
「うそだろ、サッカーやってないのに、あんなプレイできるっていうわけ? でも、やってたのはやってたんでしょ?」
「うんにゃ、生まれてこのかたサッカーはほとんどやってないにょ。キックベースくらいなら、小学生の時にしてたけどね」
そのキックベースでもホームラン級の当たりを繰り返し、敵なしだったことはこの場では言わない。
「マジかよ! きみ、絶対にサッカー選手になるべきだって! いや、めちゃくちゃかわいいな、しかし。え、ほんとにアイドルなの? でもあの動きなら……プロになれるし、女子のワールドカップも夢じゃ━━」
「遠慮しときまーす。わたし運動苦手だから!」
「いや、さすがにそれは通せんだろ」あんな運動能力を見せておいて、と春風が突っ込みを入れた。
「そうかぁ……じゃあ、せめてなにかアドバイスをください!」
と、なぜだか急にアドバイスを求める藤善選手。まだかろうじてシーズン中ではあったものの、彼らのチームはすでに上位リーグ進出の可能性がなくなっていた。
何年も下部リーグに甘んじているのだが、元々トップリーグで活躍していた藤善選手からすれば、納得のいく結果ではない。なので、女子中学生にすら頼りたくなる気持ちも、けして理解できないものではないのだ。
それに、初雪のプレーは確かにレベルが高かった。男子のプロが目を見張るほどには。
「はぁ、まあ、それくらいなら……」
と、考えを巡らせる。
試合を観戦しに行った経験はない。それでも夕方のニュース番組「わんばんこDABESA」で試合の様子が報じられることがあるので、それで何度か見たことはある。
最近でも、重要な試合で負けた様子を見ていた。それを参考にして、その時になんとなく思っていたことを、頭の中でまとめる。
「えっとねー……まずは、みんなボールを持ちすぎるきらいがあるよね。どうせ抜けないのに、相手に突っ込んで行ったってしょーがないんだからさ、空いてる味方に繋いだほうがまだ可能性は残るでしょ? それと、いちいち逆の動きするよね? 特に前線の人たち。あれってもっと話し合ってどうにかならない? 普段なんの練習してるの? チームの意志疎通ができないと、個人の能力も生きないよ。自分だけ裏を取ろうとしたって、どーせそこにはパスがこないんだから」
言われて、身に覚えのありすぎる藤善選手は口をパクパクすることしかできなかった。
「あとはスリーバック? あれも、オフサイドばっか取ろうとして、いっつも裏を取られるじゃん? だいたいみんな足遅いのに、ライン上げすぎなんだと思うよ。オフサイド狙うより先に、ちゃんと相手をマークしないと。見えない線を気にする前に、一対一で勝たないと。それと両サイドの選手が下手すぎるので、がんばってクロスの質を上げてもらうか、さもなくば新しい選手入れたほうがいいよ。力加減がバカなのかわかんないけど、だいたいゴール通り越すじゃん、クロスボールが。あれじゃ点も取りようがないよね。せっかく背の高いフォワードがいるのに、頭の上を通り越すんだもん」
それらはあまりにも的確な指摘であり、監督にも言われたことが含まれている(お前らクロス下手すぎるだろ)。まるでプロのような視点に驚かされた。
「き、きみ……ぜひともうちのチームに、コーチとして就任してくれないか!」
「いや……」と、これは春風。
さらに見ていた生坂先生がやってきて、当然のことを口にする。
「あのぅ、寿々木さんはまだ中学生ですので、コーチというのはちょっと……」
そのことに気がついた藤善選手も、しまったという顔になる。相手が中学生だということをすっかり忘れてしまっていた。なにか、一人のプロフェッショナルを相手にしていると、いつの間にか思い込んでいた。
「気持ちは嬉しいけど、無理だから━━でもアドバイスならいつでもできるし、また聞きにきていいよ?」
ごく自然な流れで藤善選手の上に立った初雪が偉そうに告げる。
それを聞いた藤善選手は怒るどころか喜んで「じゃあ、連絡先交換しよう?」と自分のスマホを取り出した。




