第3話:解毒の針と、皇子の秘められた傷
「ぐ……っ、あぁ……っ!」
激しい嘔吐とともに、王貴人の口から黒っぽい胆汁交じりの胃液が吐き出された。
「貴人様!」
侍女たちが悲鳴を上げるが、私は慌てることなく彼女の背中を優しく擦り、声をかける。
「大丈夫です、王貴人様。吐き出してください。体内に溜まっていた悪血と毒素が、外へ逃げようとしています」
(『鑑識の眼』——集中!)
瞳の奥で光が弾け、王貴人の透過グラフィックが目の前に立ち上がる。
解毒を促す名穴——脛の内側にある『築賓』と、足の甲にある『太冲』。
そこに打ち込んだ銀鍼を中心に、滞っていた「気」の流れが勢いよく渦を巻き、肝臓と胃粘膜に溜まっていた毒素(砒素)を急速に代謝・排出させているのが、鮮明なカラーのグラフィックとして“視える”。
(解剖学的に見れば、足の刺鍼による自律神経系の調整で肝血流量が増加し、解毒酵素の活性が高まっている状態。東洋医学の『排毒』が、現代医学の代謝メカニズムと完全にリンクしている!)
「はぁ……はぁ……っ、ふぅ……」
数回の嘔吐の後、王貴人の荒かった呼吸が驚くほど静まった。
土色だった彼女の頬に、みるみるうちに薄桃色の血色が戻っていく。
『鑑識の眼』で見ても、肝臓を取り巻いていた不気味な紫色の沈着がスッと薄くなり、壊滅的だった胃の粘膜組織に回復の兆しが見え始めていた。
「……体が……軽い……。胸の奥を焼くようだった痛みが、消えていく……」
王貴人が信じられないというように、自分の両手を見つめる。
数カ月間、寝床から起き上がることすらできなかった彼女が、自力で身体を起こしたのだ。
「王貴人様が……お起きになられた……! 神業だ……!」
控えていた侍医や侍女たちから、どよめきと歓声が上がる。
私を散々バカにしていた宮廷医官長の趙は、青ざめた顔でガタガタと震え、ただ石畳に平伏していた。
「……見事だ、葵」
静かな、けれど深く響く声。
振り返ると、部屋の入口に立っていた皇子・李 翔鳳が、ゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
「御医たちが数カ月かけて悪化させた病を、たった半日で解き明かし、退けてみせるとはな」
「病ではありません。毒です」
私は翔鳳の瞳を真っ直ぐに見返した。
「王貴人様は、日常的にお茶に仕込まれた微量の毒によって弱らされていました。犯人は、彼女が病で倒れることを望んでいた人物……後宮の中にいます」
翔鳳の切れ長な目が、冷徹な光を帯びて細められた。
「……そうだな。後宮は華やかな毒の巣窟だ。葵、お前のその『眼』と『針』は、奴らにとって脅威となろう。今後、お前自身の身にも危険が及ぶぞ」
「覚悟の上です。私は患者を救うためにここへ来ました。どんな陰謀だろうと、私の医術で全て打ち砕いてみせます」
言い切った私を見て、翔鳳は一瞬呆けたように目を見開き、やがてくっ、と口元を緩めた。
「頼もしいことだ。……来い、葵。お前に見せたいものがある」
◇
翔鳳に連れられてやってきたのは、彼自身の私邸の奥深く——厳重に鍵がかけられた地下の書庫だった。
「皇子様……ここは?」
「余の『主治医』となる者にだけ見せる場所だ」
翔鳳は羽織っていた黒地に金の刺繍の豪奢な衣を脱ぎ捨て、着物の前を大きく寛げた。
露わになった彼の胸元を見て、私は息を呑んだ。
(な……に、これ……!?)
彼の左胸——心臓のすぐ上の皮膚に、まるで黒いツタが絡みついたような、禍々しいアザのような紋様が浮き出ていたのだ。
「……っ、『鑑識の眼』!」
私は反射的にチートスキルを発動させ、彼の胸元を透過注視した。
(嘘……でしょ……!?)
視界に広がったグラフィックに、背筋が凍りつく。
第1話で翔鳳の発作を治めたときにも感じた違和感。その正体が、はっきりと可視化されていた。
彼の心臓の裏側、解剖学的には存在しないはずの「気血の流れる太い幹線(霊脈)」に、黒く蠢くエネルギーの塊が寄生するようにへばりついている。
それが周期的に脈動し、彼の冠動脈を強力に締め上げ、心筋虚血(強烈な胸の痛み)を引き起こしていたのだ。
(解剖学の知見にも、私の知る医学書にもこんな症例はない……! これは病気じゃない、もっと物理外の……人の手によって植え付けられた『呪脈』のようなもの!?)
「驚いたか」
翔鳳は自嘲気味に笑い、胸の黒い紋様に手を置いた。
「余が幼少の刻、宮廷の権力闘争に巻き込まれた際に植え付けられた『呪い』だ。この毒芽は余の気血を喰らい、徐々に成長している。御医どもは『原因不明の心疾患』としか診断できず、ただ死を待つばかりだった」
「……だから、あの時あんな激しい発作が……」
「そうだ。だが、お前の一本の針は、この呪いの侵食を初めて食い止めた。……葵、お前なら分かるのだろう? 余の体に潜む、この化け物の正体が」
翔鳳の鋭い双眸が、私を射抜く。
彼は気づいているのだ。私が普通の診察ではなく、彼の「内部」を完璧に見通していることに。
私はゴクリと唾を飲み込み、翔鳳の胸元にそっと手を伸ばした。
「……ええ、見えています。あなたの心臓の裏で、黒いエネルギーが脈を締め上げているのが」
「ふ……やはりな。『神の眼』を持つ女医官か」
「ですが、諦める必要はありません」
私は翔鳳の瞳をじっと見つめ、力強く宣告した。
「この黒い塊がどれほど禍々しくても、人間の体を巡る『神経』や『血管』、そして『経絡』に依存して存在していることに変わりはありません。現代医学の解剖学知識で構造を解明し、東洋医学の鍼灸でエネルギーの補給路を絶てば……絶対に、取り除けます!」
「……余のこの呪いを、根絶すると言うのか?」
「医師として、そして鍼灸師として。目の前の患者の苦しみを放置することはできません。……私に、あなたの主治医にならせてください」
翔鳳は目を見開いた後、静かに天を仰ぎ、そして低く笑った。
「面白い……! 今まで余の体に触れる者すら恐れをなしたというのに、お前はどこまで不敵な女だ」
翔鳳は私の腕を掴み、顔が触れ合うほどの距離まで引き寄せた。
「許す。余の命も、この身体も、すべてお前に預けよう。……ただし、治せなかった時は、あの世まで余に付き合ってもらうぞ?」
「……望むところです、強情な皇子様!」
冷酷な皇子の胸に秘められた、壮絶な過去と呪いの傷。
後宮の毒殺未遂事件を解決した矢先、私はこの国の運命をも揺るがす、巨大な陰謀の渦中へと足を踏み入れることになったのだった——。




