第2話:後宮の洗礼と見えざる毒
「……ここが、後宮……?」
案内されたのは、煌びやかな装飾が施された広大な敷地——ではなく、その隅にひっそりと佇む『医官院』の古い一室だった。
昨夜、皇子である李 翔鳳の胸痛発作を治め、強引に専属医官へと任命された私。
一夜明け、与えられたのは朱色の仕立の良い官服と、ズシリと重い薬箱だった。
「浮かれるなよ、異国の女」
冷ややかな声をかけてきたのは、白い髭を蓄えた老侍医——宮廷医官長である趙だった。
彼は私を苦々しい眼差しで見下ろしている。
「皇子様の御発作を偶然収めたからとて、調子に乗るな。我が国に伝わる陰陽五行の真理も知らぬ者が、不気味な針と妙な戯言で医官を騙るなど……笑止千万」
「偶然ではありません。解剖学的な知見と、正中神経への適正な刺鍼による——」
「黙れ!」
趙は苛立たしげに袖を振った。
「今日から貴様に与える仕事は、後宮の末席に座す『王貴人』様の診療だ。数カ月前から衰弱しておられるが、我ら御医の見立てでは『冷えによる気血の衰退』。……せいぜい、その怪しげな針とやらで試してみるがよい」
あからさまな押し付け、そして嫌がらせ。
けれど、私にとっては願ったり叶ったりだった。
「分かりました。すぐに向かいます」
◇
後宮の深奥にある静かな一室。
薄布の帳の向こうに横たわっていたのは、まだ二十代半ばと思われる痛々しいほどに痩せ細った女性——王貴人だった。
「……また、新しい医官ですか……。もう、結構です……。どうせ、身体を温める薬湯を飲まされるだけ……」
力なく笑う彼女の肌は土色で、眼の周りには濃い隈が落ちている。
私はそっと近づき、彼女の手を取った。
「失礼します、王貴人様。……少し、お身体を診させていただきますね」
(『鑑識の眼』——発動!)
頭の中で念じた瞬間、瞳の奥がカチリと音を立てる。
視界が切り替わり、王貴人の肌や衣装が透過して、彼女の体内のグラフィックが立体的に浮かび上がった。
(なっ……これは……!?)
私は思わず息を呑んだ。
趙医官長が言っていた「冷えによる衰退」などという生ぬるいものではない。
彼女の視界に映し出されたのは、激しく炎症を起こし、組織が萎縮しかけている「慢性的な胃腸の粘膜」、そして肝臓と腎臓の周囲にまとわりつく、不気味な紫色の沈着反応だった。
(肝機能障害と進行性の胃粘膜障害……! それに、この特有の重金属様の沈着パターン……!)
最新スキャン画像のように可視化されたデータと、私が医大時代に暗記した病理学のデータが脳内で合致する。
(慢性砒素中毒……! 毒だ。この人は、病気なんかじゃない。微量の毒を日常的に盛られている!)
「……東野医官? 私の病は……やはり治らないのでしょうか」
不安そうに私を見つめる王貴人。
私はすぐさま精神を整え、穏やかな笑みを向けた。
「いいえ。病の『本当の原因』が分かりました。王貴人様、絶対に治ります。私にお任せください」
◇
私はまず、急ぎ処方されていた薬湯の成分を確かめた。
案の定、侍医たちが処方していたのは「身体を温める」ための強い生薬ばかり。肝臓が弱り切っている現在の彼女にそれを投与し続ければ、代謝が追いつかず、かえって肝不全を悪化させるだけだ。
「これ以上の投薬は中止します。……それと、王貴人様が毎日口にしているお茶と食事の器具をすべて調べさせてください」
「な、何をする気だ!」
診察の様子を見張っていた趙医官長が、部屋に踏み込んできた。
「御医の処方を勝手に止めるなど不敬の極み! たかが冷え症に何を大げさな!」
「冷え症ではありません!」
私は立ち上がり、趙を真っ直ぐに見据えた。
「王貴人様のお体は、重度の解毒機能低下と胃腸障害を起こしています。これを東洋医学で言えば『脾胃の著しい不和と毒素の滞留』。いま温熱薬を投与するのは、火に油を注ぐ行為です!」
「た、戯言を! 毒などという証拠がどこにある!」
「証拠なら、これからお見せします」
私は薬箱から一本の細い銀鍼を取り出した。
そして、運ばれてきた王貴人の専用の茶碗——その内側に注がれたお茶に、銀鍼の先端をひたす。
数秒の静寂。
引き抜いた銀鍼の先端は——あからさまに黒く変色していた。
「な……っ!?」
趙が絶句し、顔を蒼白にする。
古代中華において、銀が硫化物や一部の毒(砒素化合物に含まれる不純物)に反応して黒変することは、秘伝の鑑別法として知られていた。
『鑑識の眼』で体内の不調を見抜き、現代の科学知識で毒の性質を特定し、古代の「銀鍼の変色」という誰の目にも明らかな形で証明してみせたのだ。
「王貴人様のお茶には、日常的に微量の毒が仕込まれていました。侍医の皆様が『冷え』と誤診して的外れな薬を与え続けていたおかげで、発見が遅れたのです」
「く……ぐぬぬ……っ!」
ぐうの音も出ない趙。
その時、部屋の入口から重厚な足音が響いた。
「見事な鮮やかさだな、葵」
低い声とともに姿を現したのは、黒衣の皇子——李 翔鳳だった。
彼は冷ややかな眼差しで趙を一瞥すると、私の隣へと歩み寄る。
「後宮の妃嬪に対する毒殺未遂、そして御医たちの深刻な誤診……。趙医官長、言い訳を聞こうか」
「ひっ……! しょ、皇子様! 滅相もございません、私どもはただ……!」
恐怖に震え上がり、石畳に平伏する趙たち。
翔鳳は彼らを一顧だにせず、私の方を振り返った。不敵で、けれどどこか熱を帯びた瞳。
「葵。王貴人の毒を抜き、完全に快復させることができるか?」
「もちろんです。私の医術と……この一本の針があれば」
私は胸を張り、力強く頷いた。
『鑑識の眼』で解毒を促す穴——「築賓」や「太冲」の位置は、すでに完璧に捉えている。
「頼んだぞ、我が専属医官。……貴様をこの宮廷に引き留めた判断は、正しかったようだな」
翔鳳の口元に浮かんだ微かな笑みを見つめながら、私は確信していた。
現代医学の知識と、東洋医学の技術、そして『鑑識の眼』。この三つがあれば、どんな陰謀が渦巻く後宮であっても、私は絶対に誰も死なせない——。




