第7話:血の遮断と、肥え太った豚の首筋
王都グランディールの大聖堂、その最奥に位置する「大教主の謁見の間」。
金箔と宝石で過剰に装飾されたその部屋は、神聖さよりも、むせ返るような俗物的な権力欲の匂いが充満していた。
「よくぞ戻った、我が誇り高き騎士団長アラリックよ」
豪奢な玉座に深く腰を沈め、たっぷりと脂肪の乗った顎を揺らしているのは、教会の頂点に君臨する大教主ボルドーだった。彼の指にはめられた幾つもの宝飾品が、いやらしく光を反射している。
「はっ。神の御加護により、魔獣の群れは退けられました」
アラリックは冷たい大理石の床に片膝をつき、深く頭を垂れていた。
昨夜、エアラの胸元で貪ったあの「至高の蜜」の余韻が、まだ舌の奥で甘く痺れている。彼女の血肉を喰らった罪深き唇で、神への忠誠を口にする。その背徳的な矛盾に、アラリックは兜の下で微かに口角を歪めていた。
(私はもう、神の騎士ではない。あの御方の、飢えた猟犬だ)
しかし、次に大教主の口から放たれた言葉が、アラリックの脳髄を氷の刃で貫いた。
「見事な働きだ。ついては、休む間もなく恐縮だが……貴殿には直ちに、北方の辺境地帯への『長期遠征』に向かってもらいたい」
「……遠征、ですか? しかし、私は聖女エアラ様の専属護衛の任が――」
「聖女様の護衛は、異端審問局のバルテル卿に引き継がせた。貴殿は手勢を率いて、最低でも半年は北方から戻ることは許さん」
ドクン、と。
アラリックの心臓が、異常な音を立てて跳ね上がった。
半年? エアラ様から、半年も離れろというのか?
それはすなわち、あの『血』を半年間、一滴も与えられないということを意味する。
「お、お待ちください、猊下! 私は……私は聖女様の傍を離れるわけには……ッ!」
「くどいぞ、アラリック!」
大教主ボルドーが、不快げに豚のような鼻を鳴らした。
「近頃、民衆の間で聖女エアラを崇める声が大きすぎる。教会の秩序を保つためには、彼女の権力を削ぎ、周囲の者を引き剥がして『教育』し直す必要があるのだ。……これは教皇猊下の御意志でもある。逆らうか?」
政治的暗闘。己の権力を守るために、エアラを孤立させ、支配下に置こうという浅ましい企み。
その事実を理解した瞬間、アラリックの視界が、ドロリとした真紅に染まった。
(あの御方を、この豚が、自分のものにしようとしているのか……?)
カチリ、と。
アラリックのガントレットの中で、鋭く変質した爪が手のひらに食い込み、血を流した。
激しい怒り。そしてそれ以上に、エアラの血を絶たれることへの「禁断症状」が、彼の思考を完全に破壊し始めていた。
あの血がないと、生きていけない。
あの血がないと、私は自分が化物であることを隠し通せない。
飢えで狂い、手当たり次第に人間を喰らい尽くす、本当の怪物になってしまう。
「……アラリック? どうした、返事をせぬか」
沈黙するアラリックを怪訝に思い、大教主が玉座から重い腰を上げ、数歩近づいてきた。
アラリックは、うつむいたまま、目の前に立つ大教主の足元を見つめていた。
そして、ゆっくりと視線を上げる。
(……ああ、なんて醜く、肥え太った首筋だ)
大教主の首から漂う、高級な香水の匂い。しかし、今の異形と化したアラリックの嗅覚には、その奥に隠された脂肪と、淀んだ血の腐臭がはっきりと嗅ぎ取れた。
不味そうだ。泥水以下の、豚の血。
だが、あの首を今この手で引きちぎり、その太い動脈に牙を突き立てて肉を喰いちぎれば、この「遠征」という命令は消えてなくなる。
「アラリック、貴様……その目は……ッ!?」
兜の奥で、人間離れした真紅の光を放つアラリックの右目に気づき、大教主が息を呑んで後ずさった。
アラリックの喉の奥から、低く、獣のような唸り声が漏れ始める。
理性の最後の一糸が、プツリと切れかかった、その時だった。
『――アラリック。悪い子には、罰が必要だと言ったでしょう?』
幻聴。
いや、彼自身の脳に直接刻み込まれた、エアラのあの甘く冷酷な声がフラッシュバックしたのだ。
(駄目だ……ここでこの豚を殺せば、私は追われる身となる。あの御方の傍にいるための『表の顔』を失ってしまう)
「……ッ、はぁっ、はぁっ……!」
アラリックは自らの太ももを、ガントレット越しに思い切り殴りつけた。骨が軋むほどの痛みが、辛うじて彼を狂気の淵から引き戻す。
「……申し訳ありません、猊下。少し、呪い……いや、戦の古傷が痛みました。……遠征の儀、謹んでお受けいたします」
血を吐くような声でそう告げると、アラリックは逃げるように謁見の間を後にした。
背後で大教主が安堵の息を吐く音が聞こえたが、もはやどうでもよかった。
暗い回廊に出たアラリックは、壁に寄りかかり、ずるずると崩れ落ちた。
全身から脂汗が吹き出し、体が激しく痙攣している。
「エアラ様……。血を……、どうか、私に……ッ」
半年。そんな途方もない期間、耐えられるはずがない。
彼は自分が、彼女という『蜜の枷』なしでは、たった一日すらまともに呼吸ができないほどに壊れきっていることを、絶望と共に自覚していた。
そして、この事実を彼女に伝えなければならない。彼女から引き離される前に、もっと、もっと深い『契約』を結ばなければ。
暗闇の中、獣に堕ちた騎士の目は、破滅的な愛への渇望でギラギラと燃え上がっていた。
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