第6話:聖域の褥(しとね)と、ひざまずく獣
王都の大聖堂、その最奥に位置する「聖女の天幕」。
色鮮やかなステンドグラスから差し込む月光が、大理石の床に冷たい影を落としている。何重もの結界と分厚いオークの扉に守られたこの部屋は、教皇でさえも立ち入りを制限される、真の絶対聖域だった。
その豪奢な絨毯の上で、アラリックは両膝をつき、深く頭を垂れていた。
「……はぁっ、はぁ……っ」
彼の体から立ち上る異常な熱気が、冷たい部屋の空気を歪ませている。
昼間、関所で異端審問官の匂いを嗅いだ瞬間から、彼の中の『怪物』は暴れ出そうと必死に爪を立てていた。それをエアラの「ご褒美」という一言だけで押さえ込んでいたのだ。限界は、とうの昔に超えていた。
「ふふ……可哀想に。本当に、よく我慢しましたね」
寝台の縁に腰掛けたエアラが、コロコロと鈴を転がすような声で笑った。
彼女は結い上げていた金糸の髪をふわりと解き、純白の修道服の胸元を飾る金の留め具に、ゆっくりと指をかけた。
カチャリ、と小さな音が響く。
露わになったのは、透き通るようなデコルテと、その奥に続く柔らかな谷間。
そこから溢れ出した、むせ返るような『甘い生命の匂い』に、アラリックの喉がヒュッと鳴った。
「エアラ、様……。もう、限界、です……私に……」
「這ってきなさい」
優しく、しかし絶対的な命令。
誇り高き騎士団長であったアラリックは、その言葉に何の疑問も抱かず、四つん這いになって大理石の床を這い、彼女の足元へとすり寄った。
異形へと変質しつつある巨躯が、華奢な少女の膝にすり寄り、愛を乞うように見上げる。その右目は、もはや隠しようのない真紅の狂気に染まっていた。
エアラは、愛犬を労うように彼のごわつく金髪を撫でた。
「馬車の中での窮屈な食事は、もう終わり。ここは私とあなただけの、誰にも邪魔されない聖域(鳥籠)です。……さあ、あなたの好きなだけ、私を貪りなさい」
彼女はアラリックの頭を抱え込むようにして、自らの胸元――心臓の鼓動が最も激しく脈打つ、心室の真上へと彼を引き寄せた。
柔らかな肌に顔を埋めた瞬間、アラリックの理性は完全に消し飛んだ。
「あ、が……ッ!!」
獣の牙が、白雪のような肌を無慈悲に引き裂く。
ドクン、ドクンと激しく脈打つ心臓の音に合わせて、黄金にも似た極上の蜜が、アラリックの口内へと溢れ出した。
「――っ、あ、あは……っ」
エアラが甘い吐息を漏らし、背中を大きく反らせた。
痛みに耐えているのではない。自身の内側に溜まりに溜まった『業』という名の猛毒が、アラリックという巨大な器に吸い出されていく、その圧倒的な解放感に身をよじらせているのだ。
一方のアラリックは、もはや自分が何を飲んでいるのかすら理解していなかった。
ただ、脳髄が溶け出すほどの強烈な快楽に支配され、咽び泣くような声を上げながら、彼女の命そのものを啜り上げている。
(ああ……! ああ!! ああ、私はこの血を吸うためだけに生まれてきたのだ……!)
「いい子……もっと、もっと深く噛みついて。私の中の黒いものを、全部あなたが飲んでちょうだい」
エアラの細い指が、アラリックの背中に食い込む。
彼はそれに応えるように、さらに強く吸い付いた。彼女の血肉を喰らい、彼女のすべてを自分の中に閉じ込めたいという、破壊的で淫らな独占欲。
それはもはや「呪いの治療」などという大義名分を粉々に打ち砕く、究極の共依存の儀式だった。
月明かりの下、聖女の純白のドレスが赤黒く染まっていく。
アラリックは、彼女の血に酔いしれ、自分が人間から『底なしのゴミ箱』へと完全に作り替えられていることに気づく由もなかった。
「……あぁ、本当に立派な牙。私のために、どこまで狂ってくれるのかしらね」
うっとりと目を細め、エアラは窓の外――眠りについた巨大な王都を見下ろした。
今はまだ、この部屋だけの秘密。
しかしやがて、この足元で血を啜る怪物が、あの傲慢な審問官も、腐敗した教皇も、すべてを恐怖で染め上げる『魔王』となる。
その想像だけで、彼女の胎の奥がジンジンと熱く疼くのだった。
聖域の夜は、果てしなく甘く、残酷に更けていく。
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