第71話:神の泥濘(でいでい)と、叛逆(はんぎゃく)の残響
「溶けてしまえ、腐ってしまえ! この世界のすべては、私とアラリックの永遠の寝室になるのよォォォッ!!」
大聖堂の半分を埋め尽くすほどの、巨大な黒と赤紫色の『混沌の泥』。
魔王アラリックの全魔力と、女王エアラの反転した生命の呪詛が完全に融合したそれは、凄まじい悪臭と熱量を放ちながら、大津波となってカイトたちへと襲いかかった。
「カイト様ッ! 前衛は俺が支えます!!」
獣人ガウルが、砕けかけた大剣を横に構え、泥の津波の最前線へと身を呈した。
ザジュァァァァッ!!
泥の触手がガウルの大剣に触れた瞬間、鋼の刃が悲鳴を上げてドロドロに溶け始める。
「ガ、ァァァァァッ!! 負けるかァッ!!」
ガウルは自身の腕の皮膚が焼け焦げるのも構わず、痛みなき渾身の膂力で泥の進撃を強引に押し留める。
「極大魔術――『天上の業火』ッ!!」
フィオナの杖から放たれた純白の炎が、ガウルを飲み込もうとしていた泥の触手を激しく焼き払う。
「黎明の光よ! 邪悪なる呪いを浄化したまえ!」
ルナリスが放つ無数の光の矢が、泥から無数に浮かび上がる『怨念の目玉』を次々と射抜いていく。
だが、圧倒的な質量の差だった。
燃やしても、浄化しても、神の泥は底なしの魔力で瞬時に再生し、さらに巨大な触手となって仲間たちを飲み込もうとする。
「あははははっ! 無駄よ、無駄! 私とアラリックの愛は、永遠に増え続けるの! 邪魔する羽虫は、みんなドロドロの胃液の中で永遠に溶け続けなさいッ!!」
泥の中心部。辛うじて人間の上半身の形を保っているエアラが、両目から血の涙を流しながら狂ったように喚き散らす。
「……寝言は大概にしやがれッ!!」
カイトが、全身に纏った真紅の『局所因果・極』を爆発させ、泥の津波の中へと正面から飛び込んだ。
猛毒と呪詛の泥がカイトの肉体を溶かそうと殺到するが、刃こぼれした鉄剣とカイトの全身を覆う真紅の光が、触れる因果を端からすべて白紙化していく。
ズバァァァァンッ!!
カイトの剣閃が、巨大な泥の壁を十メートルにわたって真っ二つに斬り開いた。
「行けェッ! カイト様ァッ!!」
ガウルたちが血反吐を吐きながら叫ぶ。
だが、エアラは狂乱の笑みを浮かべた。
「届かないわよ。だって、この泥の中には……私が集めた『可愛いお人形たち』がいっぱい詰まってるんだもの!」
エアラの声に呼応し、斬り開かれた泥の断面から、無数の『黒水晶の彫像』がせり出してきた。
それは、かつてこの大聖堂の玉座の間に飾られていた、歴代の勇者や英雄たち。絶望の表情を浮かべたまま水晶に閉じ込められ、永遠のオブジェと化していた彼らの肉体が、泥の触手に操られる『肉の盾』としてカイトの前に立ち塞がったのだ。
「……ッ!」
カイトは、咄嗟に鉄剣の軌道を逸らした。
(クソッ……! こいつらごと斬り捨てるわけにはいかねえ!)
「あははっ! 優しいのね! じゃあ、そのお人形たちと一緒に潰れなさいッ!!」
エアラが腕を振り下ろす。
黒水晶の勇者たちを盾にした巨大な泥の波が、カイトを完全に圧殺しようと四方から覆い被さってきた。
万事休す。
カイトの真紅の極致をもってしても、無辜の魂を盾にされては因果の斬撃を振り抜くことができない。
その時だった。
『――往け。名もなき、希望の剣よ』
カイトの脳内に、いや、大聖堂の空間そのものに、低く、しかし誇り高い『無数の声』が響き渡った。
「な……え?」
エアラの狂った笑い声が、ピタリと止まった。
カイトを押し潰そうとしていた泥の波が、空中で完全に硬直したのだ。
見れば、泥の触手に絡め取られていた『黒水晶の勇者たち』の像が、内側から眩い白銀の光を放ち始めていた。
「バ、バカな……! お前たちの魂は、何百年も前に完全にへし折ったはずよ!? なぜ、今さら抵抗するのッ!!」
エアラが狼狽し、泥を無理やり動かそうとする。
だが、勇者たちは止まらない。
魔王アラリックが死に、呪縛が弱まったこと。そして何より、カイトと仲間たちの決して諦めない『反逆の熱』が、永遠の絶望に沈んでいた彼らの魂を呼び覚ましたのだ。
ルナリスが持つ『黎明の神弓』が、イゴールの魂と共鳴して激しく発光する。
その光に導かれるように、盲目の聖公女、獣人の戦士、そして数多の英雄たちの水晶像が、自らの残された魂のすべてを燃やし、泥の動きを内部から完全に押さえ込んでいた。
『俺たちの無念ごと……その魔女を、討てェェェッ!!』
勇者たちの声なき絶叫と共に、黒水晶の像が次々と内側から砕け散っていく。
それは、彼らが自身の存在(魂)と引き換えに、エアラの泥の内部構造を完全に破壊した瞬間だった。
「アァァァァァァァッ!? 私の、私の泥が……! アラリックとの繋がりが、崩れていくゥゥッ!!」
エアラが血を吐き、巨大な泥の波がボロボロと崩壊していく。
勇者たちの魂が自らを犠牲にして切り拓いてくれた、ただ一つの一本道。
その道の先には、狂乱して無防備になったエアラの『本体(上半身)』が、完全に露出していた。
「……みんなの意地、確かに受け取ったぜッ!!」
カイトは、全身の真紅の魔力を、右手の鉄剣の『刃先』へと限界まで圧縮した。
記憶のすべてを燃やし尽くし、魂の底の底まで空っぽになったからこそ生み出せる、純度百パーセントの神殺しの一撃。
「おおおおおおおッ!!」
カイトが、崩れゆく泥の道を踏み台にして、真っ直ぐにエアラの懐へと跳躍した。
「来ないで! 来ないでェェェッ!! アラリック、私を助けてッ!!」
エアラが涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、残った泥の槍を無数に突き出す。
「お前らの永遠の寝室は……」
カイトは、迫り来る泥の槍をすべて真紅のオーラで弾き飛ばし、大上段に構えた鉄剣を、エアラの胸元――その魔力の核へと向けて、渾身の力で振り下ろした。
「地獄の底で、勝手にやってろォォォッ!!」
ズバァァァァァァァァァァンッ!!!!!
真紅の因果の刃が、魔王と女王の融合した混沌の核を、その概念ごと完全に両断した。
眩いばかりの光が、帝都グランディールを、いや、世界中を覆っていた絶望の真紅の雲を、真っ二つに切り裂きながら天高くへと立ち上っていった。
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<beens 過去作>
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