第66話:神の遊戯と、地に這う者たちの牙
「……吠えるな、羽虫が」
魔王アラリックの深淵のような瞳に、微かな、しかし絶対的な『不快感』が宿った。
何百年間も彼らの甘美な世界を脅かす者などいなかった。自分たちに牙を剥くことなど、許されるはずがない。
アラリックが、玉座からゆっくりと立ち上がった。
その瞬間。大聖堂の空間そのものが、ひび割れたガラスのように悲鳴を上げた。
「死ね」
アラリックが、無造作に右手を横に薙ぐ。
魔法の詠唱などない。ただの腕の振りに、空間そのものを『断絶』させる漆黒の刃が伴っていた。
それは、魔法というよりも、世界を切り取る「物理法則の削除」に近かった。
「……ッ!」
カイトの視界が、真っ二つにズレる。
(速い……! しかも、この黒い刃……因果の起点がどこにもねえ!)
ステラという精密な照準器を失ったカイトにとって、理不尽に放たれる神の魔法は、まさに暗闇の中で無数の凶刃を躱すようなものだった。
だが、今のカイトには、バルドとの血を吐くような修行で身につけた『剣鬼の目』がある。
「――シッ!」
カイトの体がブレた。
バルダス流暗殺歩法『無音縮地』。
漆黒の断層が自身の首を刈り取るコンマ一秒前、カイトは腰を極限まで落とし、床を滑るようにしてその刃を潜り抜けた。
「ほう。ネズミのように逃げ回るか」
アラリックの瞳が冷たく細められる。
彼が指先を鳴らすと、今度は玉座の間の床、壁、天井から、無数の漆黒の棘が爆発的に生え出し、カイトを全方位から串刺しにしようと殺到した。
「逃げるだけじゃ、神様は倒せねえからなッ!」
カイトは、刃こぼれした鉄剣を風車のように振るった。
刃先に宿る、真紅の『局所改竄』。
カイトの体に触れようとする漆黒の棘が、剣閃に触れたその一点でのみ、パチン、パチンと音を立てて『存在の因果』を白紙化され、霧散していく。
「ガ、アァァァァッ!!」
カイトは、全身の筋肉を軋ませながら、棘の嵐の中を一直線に駆け抜ける。
脳裏から、さらにいくつかの「地球の風景」が剥がれ落ちていく感覚があった。大規模な因果改竄はしないと決めても、これほどの神の魔法を連続で斬り払い続ければ、代償は確実にカイトの魂を削っていく。
(……それでも、止まらねえ!)
「そこだァァッ!!」
ついに、カイトは漆黒の嵐を抜け、玉座に立つアラリックの懐へと飛び込んだ。
振りかぶった鉄剣に、残されたすべての因果を乗せる。
狙うのは、アラリックの心臓。
かつてジークフリートの『魂喰いの聖剣』すら指一本で粉砕した魔王の防御ごと、この一撃で白紙化して叩き斬る。
「……愚かな。届いたところで、貴様のナマクラ剣など」
アラリックが冷笑を浮かべ、再びその指先でカイトの剣を受け止めようとした、その刹那だった。
「……んっ。アラリック、ダメよ」
玉座の上で微睡んでいた女王エアラが、ふっと甘い吐息を漏らし、美しい瞳を開いた。
「私の前で、そんな汚い血を流さないでちょうだい」
エアラが、カイトに向けて白く透き通るような指を『一本』向けた。
その瞬間。
「……ッ!?」
カイトの体が、空中で完全に硬直した。
物理的な鎖ではない。エアラの指先から放たれた『極彩色の毒』のような呪詛が、カイトの足元から一瞬にして全身へと這い上がり、彼の生命力そのものを強制的に凍結させたのだ。
(動け、ねえ……。俺の魔力が、急激に……!)
カイトの鉄剣に宿っていた真紅の光が、チカチカと明滅し、急速に失われていく。
かつて、すべての人間を狂わせ、家畜へと作り変えた元・聖女の反転した加護。
それは、魔法の因果すらも腐敗させる、この世界で最も甘く、最も恐ろしい『生命の枯渇』だった。
「あら、ごめんなさいね。私の『愛』に触れると、少しだけ息がしづらくなるの」
エアラは玉座に座ったまま、クスクスと残酷な笑い声を上げた。
「アラリック、この子も早くあのオブジェ(水晶)の中に飾ってあげて。……生意気な目をしてるから、一番目立つ場所にね」
「御意のままに、私の女王」
アラリックが、動けなくなったカイトの首を掴もうと、ゆっくりと手を伸ばした。
(クソッ……! ここまで、来て……!)
カイトが奥歯を噛み砕くほどの力で呪いに抗おうとするが、指先一つ動かすことができない。
圧倒的な、神と神の遊戯。
カイト一人では、二柱の絶望を同時に相手取ることなど不可能だったのだ。
だが。
カイトは、決して『一人』ではなかった。
「……誰が、やらせるかよ……ッ!!」
大理石の床。
アラリックの『神の威圧』によって、数万トンの重圧に潰され、地に這いつくばっていたはずの獣人が、両目から血の涙を流しながら、無理やり立ち上がっていた。
「な……に?」
アラリックの視線が、わずかに動いた。
「ガ、アァァァァァァッ!! 俺たちの、希望に、触るんじゃねェェッ!!」
獣人ガウルだった。
彼は、自身の骨が全身で折れる音を響かせながら、かつて【激痛の加護】で培った精神力と、カイトに与えられた『痛みなき真の力』を極限まで暴走させ、神の重圧を強引に跳ね除けていた。
「ガウル……ッ!」
カイトが目を見開く。
「カイト様は……私が、守るッ!!」
ガウルの反対側。
ルナリスが、血反吐を吐きながらも膝をつき、イゴールから託された『黎明の神弓』を天に向けて引き絞っていた。
「極大魔術――『天上の業火』ォォォッ!!」
そして後方からは、フィオナが気力を振り絞り、純白の杖から太陽のような炎の奔流を放つ。バルドもまた、老体に鞭打ち、投擲用の短剣をアラリックの死角へと連続で放っていた。
彼らは、数百年間、魔王の前でただ絶望し、這いつくばるだけの存在だった。
だが、カイトという光に出会い、自らの足で立ち上がることを知った彼らは、もはや神の威圧ごときで心を折られるような『家畜』ではなかった。
「……チッ。忌々しい羽虫どもが」
アラリックが、カイトへ伸ばしていた手を止め、苛立たしげに舌打ちをした。
放たれた浄化の矢、極大の炎、そしてガウルの渾身の大剣の投擲が、玉座のアラリックとエアラへと殺到する。
「カイト! 今だァァッ!!」
ガウルの咆哮が、大聖堂に響き渡った。
仲間たちが作り出してくれた、ほんの一瞬の『神の死角』。
エアラの注意が仲間たちの攻撃に向き、カイトを縛っていた呪詛がほんの僅かに緩んだ、その刹那。
(……ありがとな、お前ら!!)
カイトは、薄れゆく記憶の空洞を、仲間たちからもらった『熱』で埋め尽くし、再び真紅の黄金を爆発させた。
呪詛を強引に引きちぎり、アラリックの懐へと、最後の踏み込みを放つ。
「死ねェッ! 魔王ォォォッ!!」
空っぽの英雄の刃が、ついに神の領域へとその牙を突き立てようとしていた。
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