第57話:灰の森の急襲と、一滴(ひとしずく)の斬撃
「――敵襲ッ! 上層の偽装入り口が破られたぞ!!」
薄暗い『灰の森』の地下拠点に、悲痛な警鐘が鳴り響いた。
これまで数年間、魔王軍の目から逃れ続けてきたレジスタンスたちの隠れ家が、ついに嗅ぎつけられたのだ。
「チッ、あの鼻の利く猟犬どもめ……!」
焚き火のそばでカイトと打ち合っていた隻眼の騎士バルドが、舌打ちをして自身の長剣を鞘に納めた。
「カイト、お前さんは奥へ隠れていろ。まだ傷も完全に癒えきっちゃいない」
「待てよ、バルド。俺も――」
カイトが制止する間もなく、バルドは身を翻し、悲鳴が上がる上層の坑道へと駆け出していった。
カイトは自身の両手を見つめた。
無数の肉刺が潰れ、硬く変質した手のひら。この数ヶ月、血を吐くような思いで振り続けた剣の感触が、そこには確かに刻み込まれていた。
「……隠れてる柄じゃねえだろ」
カイトは、壁に立てかけられていたレジスタンスの備品である「刃こぼれした鉄剣」を無造作に掴み取ると、バルドの後を追って上層へと駆け上がった。
上層の防衛線は、すでに地獄絵図と化していた。
「押し返せ! 陣形を崩すな!」
バルドが怒号を飛ばし、前衛のレジスタンスたちと共に槍や剣を突き出している。
だが、彼らが相対しているのは、ただの魔物ではない。
全身を分厚い『黒甲殻』で覆われた巨大な四足歩行の魔獣が十数体。そして、その後方で邪悪な笑みを浮かべて指揮を執る、魔王軍の先鋒部隊長たる上位悪魔の姿があった。
「ガァァァァッ!!」
魔獣の一匹が突進し、強靭な前脚を振り下ろす。
「ぐわぁッ!?」
レジスタンスの構えていた鉄の盾が、まるで紙屑のようにひしゃげ、数人がまとめて吹き飛ばされた。彼らの剣や槍が魔獣の黒甲殻に当たっても、火花が散るだけで傷一つつけられない。
「クソッ、硬すぎる! 魔法使い、炎を集中させろ!」
バルドが叫び、後方の者が火炎魔法を放つが、上位悪魔が指を鳴らすと、魔獣の周囲に展開された瘴気のバリアがそれらを完全に弾き返した。
「無駄だ、ネズミども。貴様らの貧弱な牙など、我が愛獣の皮膚一枚貫けはせん」
上位悪魔が冷酷に嗤う。
「さあ、一匹残らず蹂躙しろ」
魔獣たちが一斉に咆哮を上げ、崩れかけた防衛線へと雪崩れ込もうとした、その時。
「――下がってろ、バルド」
静かな声と共に、一人の青年がバルドの横をすり抜け、最前線へと歩み出た。
刃こぼれした、粗末な鉄剣をだらりと下げたカイトだった。
「カイト!? バカ野郎、素手で岩を砕くような連中だぞ! 今のお前さんの体力じゃ――」
バルドの制止の声を背に受けながら、カイトは深く、細く息を吐いた。
(……足の裏で、地面を掴む)
カイトの視界から、周囲の喧騒がスッと消え去る。
かつての彼なら、ここで右腕に莫大な魔力を集め、空間ごと魔獣たちを吹き飛ばしていただろう。だが、それをすればまた「自分の過去」が削り取られ、いずれ完全に自己を喪失してしまう。
迫り来る巨大な黒甲殻の魔獣。
その質量と速度は、まともに受ければカイトの体を容易くミンチにするだろう。
だが、カイトの瞳には一切の恐怖も、力みもなかった。
ただ、冷たく澄み切った『剣鬼の目』が、魔獣の動きを『線』として捉えていた。
「グルルルルァァァッ!!」
魔獣がカイトを噛み砕こうと、巨大な顎を広げて飛びかかってきた。
その瞬間。
カイトは、ほんの半歩だけ斜め前へ踏み込み、魔獣の突進の『死角』へと滑り込んだ。
そして、だらりと下げていた鉄剣を、下から上へ、一切の無駄のない軌道で振り抜く。
刃が、魔獣の絶対に貫けないはずの黒甲殻に触れる、そのコンマ数ミリの瞬間。
カイトの鉄剣の『刃先』だけに、一滴の真紅の光がチカッと閃いた。
――スパンッ。
爆音はない。魔力光の激しい瞬きもない。
ただ、美しい水音が響いたような錯覚だけがその場に残った。
「……え?」
後方で見ていたレジスタンスの一人が、間の抜けた声を漏らす。
カイトと交差するように着地した巨大な魔獣は、ピタリと動きを止め――次の瞬間、その硬い黒甲殻ごと、脳天から尻尾の先まで、左右に「完璧な真っ二つ」に分断されて崩れ落ちた。
「な……に?」
指揮を執っていた上位悪魔が、驚愕に目を見開いた。
「バルドの言う通りだ」
カイトは、一滴の血もついていない鉄剣の刀身を見つめ、静かに呟いた。
「無駄に大爆発を起こす必要なんてなかった。……斬り裂く瞬間の『因果』だけを書き換えれば、こんなナマクラ剣でも、世界で一番鋭い刃になる」
局所改竄。
敵の防御力という理を、刃が触れたその一点でのみ「なかったこと」にする究極の剣技。
莫大な魔力を消費することもなく、カイトの脳裏に「記憶が欠落する痛み」は一切走らなかった。
「バ、バカな……! 我が魔獣の甲殻を、ただの鉄剣で両断しただと!? ええい、何をしている、奴を殺せ!!」
上位悪魔の命令に呼応し、残る十匹以上の魔獣が一斉にカイトへと襲いかかる。
だが、カイトの足取りは、まるで森の中を散歩するように軽やかだった。
「シッ!」
カイトの体がブレる。
直線的な突進を最小限の動きで躱し、すれ違いざまに刃を振るう。
一閃。また一閃。
鉄剣の刃先に一滴の真紅が灯るたび、絶対に傷つかないはずの魔獣たちが、音もなく、抵抗すら許されずに次々と両断されていく。
「バケモノ、め……ッ!」
上位悪魔が恐怖に顔を引きつらせ、自身の両手から極大の『腐敗の黒炎』を放った。
「燃え尽きろォォォッ!!」
迫り来る死の炎。
だがカイトは、逃げることも防壁を張ることもせず、ただ静かに鉄剣を上段に構えた。
「――遅えよ」
振り下ろされた鉄剣が、空間そのものを『斬り裂いた』。
真紅の一滴を宿した刃が、魔法の構成式(因果)を直接両断し、黒炎はカイトの体の左右へと海を割るように分かれて霧散した。
「あ……」
炎が晴れた直後、上位悪魔の目の前には、すでにカイトが肉薄していた。
「地獄の底で、俺の剣のサビになったことを誇りな」
横凪に振るわれた凶刃。
上位悪魔の首が、何の抵抗もなく宙を舞った。
静寂が戻った地下坑道。
血だまりの中で、ただ一人、カイトだけが静かに息を吐き、刃こぼれした鉄剣を振るって血糊を払った。
「……すげえ」
「あんなバケモノどもを、一瞬で……」
レジスタンスたちが、畏怖と希望の入り混じった眼差しでカイトを見つめる。
バルドだけは、隻眼を細め、満足げに鼻で笑っていた。
「……どうやら、とんでもない剣鬼を育てちまったらしいな」
カイトは振り返り、バルドに向けて小さく笑った。
頭の中はクリアだ。誰の顔も忘れていない。チートに振り回されていたかつての『空っぽの救世主』は、泥臭い修行の果てに、ついに己の力で振るう『本物の牙』を手に入れたのだ。
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