第56話:空っぽの剣、一滴(ひとしずく)の因果
「……998、999……、1000……ッ!」
薄暗い地下空洞に、カイトの荒い呼吸と、木剣が空を切る風切り音だけが響き続けていた。
『灰の森』の拠点での生活が始まってから数週間。カイトの日常は、ただひたすらに「振る」ことだけだった。
「重心が高い。足の裏で地面を掴む感覚を忘れるな」
焚き火のそばから、バルドの容赦ない声が飛ぶ。
「わか、ってる……!」
カイトは汗だくの顔を歪め、再び木剣を上段に構えた。
だが、その両手には無数の肉刺が潰れ、柄はすでにカイト自身の血で赤黒く変色している。かつて地球で学生だった頃の柔らかい手は、もうどこにもない。
「よし、素振りはそこまでだ。次は実践だ。構えろ」
バルドが立ち上がり、自身の使い込まれた長剣を鞘からゆっくりと抜いた。
「えっ……ちょ、休憩は……」
「戦場で敵が待ってくれるとでも思っているのか?」
言葉が終わるよりも早く、バルドの姿がブレた。
「――ッ!」
カイトが咄嗟に木剣を盾にするが、バルドの一撃はカイトの防御の『外側』から、まるで蛇のように滑り込んできた。
ガンッ! という鈍い音と共に、カイトの膝裏に強烈な蹴りが入り、そのまま木剣を弾き飛ばされて地面に転がされる。
「痛ぇっ……! あんた、マジで容赦ねえな……」
「お前さんの動きは直線的すぎる。魔法という『面』で制圧することに慣れきっている証拠だ。剣は『線』であり『点』だ。敵の呼吸を読み、力の流れを躱し、一番脆い場所に刃を置く。それができなければ、ただの力自慢の案山子だ」
バルドは長剣を収め、近くにあった人間の頭ほどもある硬い『黒鉄岩』を無造作に拾い上げ、カイトの前に置いた。
「今日は、お前さんのその『力』を剣に乗せる訓練だ」
バルドは黒鉄岩を指差した。
「この岩を、木剣で両断してみせろ。ただし、周りの地面や空気を吹き飛ばすのはナシだ。刃が岩に触れる『その瞬間、その一点』だけに、お前さんの因果を書き換える力を流し込め」
カイトは立ち上がり、弾き飛ばされた木剣を拾った。
「……インパクトの瞬間にだけ、局所改竄を使う。言うのは簡単だけどな」
カイトは木剣を上段に構え、深く息を吐いた。
(的を絞るんだ。全部を書き換えるんじゃない。この木剣が、岩を豆腐みたいに通り抜ける因果だけを……)
カイトの右腕に、真紅の黄金の魔力がチロチロと集まり始める。
だが、女神ステラという『精密な照準器』を失った今、力の出力調整は暴れ馬の手綱を素手で握るようなものだった。
「……シッ!」
カイトが渾身の力で木剣を振り下ろす。
バアァァァァァァァンッ!!
「うわっ!?」
木剣が岩に触れた瞬間、制御を失った真紅の魔力が爆発を起こした。
黒鉄岩だけでなく、その下にあった地面ごと半径3メートルの空間が球状に「消滅」し、カイト自身もその反動で後ろに吹き飛ばされた。
「……ゲホッ、ゴホッ! 失敗、か……」
砂煙の中で咳き込むカイトの脳内に、チリッとした痛みが走る。
(……まただ。今の一撃で、地球の『信号機の色』の記憶が消えた)
力の無駄遣いは、直結して己の過去(燃料)の喪失を意味する。カイトはギリッと奥歯を噛み締めた。
「力の奔流に、剣が振り回されているな」
バルドが呆れたようにため息をついた。
「お前さんは『失敗して力を無駄にする恐怖』に囚われている。空っぽになるのを恐れるな。剣を振るう瞬間、迷いがあれば刃は必ずブレる。過去でも未来でもなく、ただ目の前の『今、斬るべき一点』だけを見ろ」
「……今、斬るべき一点」
カイトはゆっくりと立ち上がり、もう一つの黒鉄岩の前に立った。
失っていく過去の記憶への恐怖。それを完全に捨て去らなければ、この力は制御できない。
(俺はもう、向こうの世界の人間じゃない。地球での思い出も、名前の響きも、全部くれてやる)
カイトは目を閉じ、自身の内側にある『空っぽの空洞』を見つめた。
何もない。だが、その底に一つだけ、強烈に燃え続けているものがあった。
自分を信じてくれたルナリスたちの涙。ボロボロになったフィオナとガウルの姿。そして、自分をこの世界に繋ぎ止めて消えていったステラの最後の声。
(あいつらのために、俺は『剣』になる)
カイトが再び目を開けた時、その瞳から一切の焦りと恐怖が消え失せていた。
ただ静かに、冷たく、目の前の標的を見据える剣鬼の目。
木剣を静かに構える。
呼吸を極限まで薄くし、足の裏で大地の脈動を感じ取る。
「……フッ」
一切の力みを感じさせない、自然体の振り下ろし。
木剣が黒鉄岩の表面に触れる、まさにそのコンマ数ミリの瞬間。
カイトの木剣の『刃先』だけに、一滴の真紅の光がチカッと閃いた。
――スパンッ。
爆音も、衝撃波も、閃光もなかった。
ただ、硬度において鋼を凌ぐとされる黒鉄岩が、何の変哲もないただの木剣によって、まるで水面に刃を立てたかのように、音もなく綺麗に真っ二つに両断されていた。
「……」
カイトは振り抜いた姿勢のまま、自分の両手を見つめた。
反動は一切ない。脳が削られるようなあの激痛も、微かな疲労感に変わっていた。
「……お見事」
バルドが、隻眼を細めて静かに拍手をした。
「力のロスはゼロ。極限まで圧縮された因果の刃……。魔法の暴力を、完全に『剣の理』に落とし込んだな」
「……まだ、まぐれみたいなもんだ。止まってる石だからできただけで、動く相手にこのタイミングを合わせるには、もっと振らなきゃいけない」
カイトは両断された岩を見下ろし、木剣の柄を握り直した。
「ああ、その通りだ。だが、お前さんは今、確実に扉を開けた」
バルドは満足げに笑い、再び自身の長剣を抜いた。
「さあ、休憩は終わりだ。今度は俺の剣を、その『一滴の因果』で受け流してみせろ。死ぬ気で来い、坊主!」
「……上等だ、ジジイッ!」
薄暗い地下遺跡に、再び激しい剣戟の音が響き始める。
チートという名の魔法を捨て、ただ一振りの必殺の刃として己を研ぎ澄ましていく少年。
彼の空っぽだった魂に、少しずつ『最強の剣士』としての新たな芯が形成されようとしていた。
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