第52話:静寂の脳内と、開かれる絶望の門
帝都グランディールの巨大な黒曜石の城門前。
荒涼とした大地には、真っ二つにへし折られた【傲慢】の聖剣の残骸と、力尽きて眠りに落ちたカイトの体を囲むように、数百の人間たちが陣を敷いていた。
「カイト様……。お願い、熱よ下がって……っ」
フィオナが、自身の魔力を極限まで振り絞りながら、カイトの深く抉られた胸の傷に治癒魔法をかけ続けている。彼女の美しい顔は疲労で青ざめ、額からは大粒の汗が滴り落ちていた。
「フィオナ、少し休め。お前まで倒れちまうぞ」
全身に包帯を巻かれた獣人ガウルが、痛む足を引きずりながら声をかけた。彼自身もジークフリートの一撃で肋骨を粉砕される重傷を負っていたが、反乱軍の男たちと共に、カイトを守るための即席の防衛線を構築していた。
「休んでなどいられません! カイト様は……私たちのために、自分が何者だったのかという大切な記憶を、すべて捨ててくださった……ッ!」
フィオナの目から、大粒の涙がカイトの頬へと落ちる。
「ああ、分かっている。俺たちは、彼に命以上のものを貰ったんだ」
ルナリスが、折れた白銀の聖剣の柄をしっかりと握りしめながら、静かに頷いた。
彼女の瞳には、かつて「聖女」として魔王軍に怯えていた頃の弱さは微塵もない。
「聞いてくれ、みんな」
ルナリスが、集まった数百の人々に向けて振り返った。
彼らもまた、カイトの絶望的な死闘を遠くから見届け、その自己犠牲の深さを知っていた。武器を握る彼らの手には、もう迷いはない。
「カイト様は、理不尽な世界から私たちを救うために、ご自身の帰る場所すらも燃やし尽くして戦ってくれた。……今度は、私たちが彼の背中を守る番だ。たとえ何万の魔物が押し寄せようと、カイト様が目覚めるまで、この場所は一歩も退かない!」
「おおおおおおおッ!!」
地鳴りのような鬨の声が、帝都の城壁を震わせた。
それは、数百年間家畜として生きることを強要されてきた人類が、真の尊厳と誇りを取り戻した瞬間だった。
――同時刻。帝都中枢、宰相府。
ガシャァァァァンッ!!
分厚い大理石の机が、帝国宰相レオンの放った漆黒の魔力によって粉々に吹き飛ばされた。
「ジークフリートが……あの絶対無敵の【傲慢】が、討たれただと……!?」
レオンの右半身を覆う魔力結晶が、制御を失ったように激しく明滅し、バチバチと火花を散らしている。
彼の冷徹な頭脳は、完全にショート寸前だった。
魔王が自らの手で心を壊し、最強の防衛兵器として造り替えたジークフリート。その彼が敗れたということは、もはや帝都の防衛力は実質的にゼロになったに等しい。
しかも、レオンの魔力探知は、カイトの放った「真紅の黄金」の極大魔法の余波を確かに捉えていた。
「あれは……神の奇跡などではない。自らの魂を燃料として理をねじ伏せる、悪魔の業だ。……あの男は、世界そのものを破壊する気か!」
冷や汗が、レオンの青白い頬を伝う。
彼は震える足で執務室を飛び出し、大聖堂の最上階――魔王アラリックと女王エアラが籠る『玉座の間』へと駆け上がった。
だが。
重厚な黒曜石の扉の前には、相変わらず甘く退廃的な、狂気に満ちた愛の囁き声が満ちていた。
『ああ、私の女王。貴女の美しさを前にすれば、この世界が明日滅びようとも構わない……』
『ふふっ、アラリック。あなたったら……』
「……ッ、魔王様! エア、ラ様……ッ!!」
レオンは扉に両手を叩きつけ、血を吐くような悲痛な声を上げた。
「恐れながら申し上げます! 反逆者どもが、すぐそこまで……城門を突破し、帝都へとなだれ込んできます! どうか、どうか玉座をお立ちになり、その絶大なる御力で――」
『――やかましいぞ、レオン』
扉の向こうから響いたのは、絶対的な冷たさを孕んだ魔王の声だった。
『我とエアラの蜜月を邪魔するな。羽虫の駆除など、貴様に任せているはずだ』
「しかし、ジークフリートすらもが討たれ――」
『ならば、貴様が死ね』
無慈悲な一言が、レオンの言葉を完全に遮った。
『貴様が死んででも、この扉に羽虫を近づけるな。……次、我の愛の時間を邪魔すれば、貴様をその扉ごと塵にする』
「…………ッ」
レオンは、絶望に目を見開き、そして、ゆっくりと扉から手を離した。
絶対の忠誠を誓い、数百年間この世界を管理してきた彼にとって、その言葉はあまりにも惨い宣告だった。しかし、彼に反逆の意志はない。
「……御意に」
レオンは深く頭を下げ、冷たい石の床に跪いた。
彼が立ち上がった時、その瞳からは一切の感情が抜け落ち、ただ冷徹な殺意だけが宿っていた。
「ならば、私が止める。私の魂と、この命のすべてを代償にして……あの異物を、永遠の氷獄へと沈めてみせよう」
――再び、帝都の城門前。
「……ん……」
カイトは、深い泥の底から浮上するように、ゆっくりと重い瞼を開けた。
「カイト様! 気がつかれたのですね!」
「おい、無理すんな! まだ血が止まりきってねえ!」
ルナリスとガウルが、涙ぐみながらカイトの顔を覗き込む。
カイトは体を起こそうとしたが、胸の激痛に顔をしかめた。
だが、それ以上に彼を襲ったのは、圧倒的な『喪失感』と『静寂』だった。
(……ステラ。おい、ステラ。起きてるか?)
カイトは心の中で呼びかけた。
いつもなら、『はい、主。おはようございます』と、少し機械的で温かい声が返ってくるはずだった。
しかし、脳内には何の応答もない。ただ、冷たい風の音だけが虚しく響いている。
ステラは、カイトの命を繋ぐために、自身の存在を完全に使い果たして消えてしまったのだ。
「……そうか。俺はもう、お前のナビゲーションなしで、自分の足で歩かなきゃいけねえんだな」
カイトはぽつりと呟き、自身の右手をじっと見つめた。
地球での記憶もなく、導いてくれる女神の声もない。今の彼にあるのは、ただ目の前で泣き笑いしている仲間たちと、この世界を救うという約束だけだった。
「カイト様……?」
「心配かけたな、ルナリス。フィオナも、ありがとな。おかげで動けそうだ」
カイトは、フィオナの肩を借りてゆっくりと立ち上がった。
そして、足元に落ちていた、ジークフリートの折れた聖剣の柄を拾い上げた。
「……行くぞ」
カイトが前を向く。
その視線の先には、禍々しい瘴気を放つ帝都グランディールの巨大な城門がそびえ立っている。
「案内なんていらねえ。俺が、一番奥の玉座まで続く道を、全部こじ開けてやる」
カイトが折れた聖剣の柄を城門へと突き出した瞬間。
真紅の黄金に輝く魔力が、凄まじい轟音と共に黒曜石の門を粉々に吹き飛ばした。
「さあ、最終ラウンドだ。……魔王の首、もらいに行くぜ」
ステラの声がない完全な静寂の中。
自らの意志と覚悟だけを胸に秘め、名もなき勇者となったカイトは、仲間たちと共に、絶望の帝都へとその足を踏み入れた。
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<beens 過去作>
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