第51話:真紅の代償と、誇り高き皇子の帰還
血と泥に塗れた荒野に、暴風のような魔力が吹き荒れた。
【傲慢】のジークフリートが、再び白銀の聖剣を無造作に振り上げる。狙いは、立ち上がったばかりのカイトの首。絶対的な死をもたらす、感情のない処刑の一撃だった。
「……遅えよ」
カイトの低い声が響いた瞬間。
真紅の黄金に輝くカイトの右腕が、振り下ろされる聖剣の刀身を『素手』で正面から受け止めていた。
ガギィィィィィィンッ!!
大地が陥没し、凄まじい衝撃波が周囲の岩山を粉砕する。
「な……ッ!?」
吹き飛ばされて倒れていたガウルが、血まみれの顔を上げて愕然とした。あれほど理不尽なまでの絶望を叩きつけてきた最強の剣撃が、カイトの片手によって完全に止められているのだ。
だが、その力の裏側で、カイトは想像を絶する『喪失』の痛みに耐えていた。
(……ああ。消えていく)
カイトの脳内で、古い写真が炎に焼かれるように、地球での記憶が次々と灰になって消えていく。
通っていた学校の名前。好きだった音楽のメロディ。母親が作ってくれた、一番好きだったご飯の味。
カイトという人間を形成していた「過去」が、この異常な因果の書き換えを維持するための『燃料(代償)』として、世界に凄まじい勢いで喰われていく。
「グゥゥゥゥッ……!!」
カイトの口から、獣のような低い唸り声が漏れた。
恐怖はある。自分が空っぽになっていく感覚は、死よりも恐ろしかった。
だが、背後で倒れているルナリスや、ボロボロになったフィオナとガウルを守れるなら、こんな記憶など安いものだ。
「お前も……こんなふうに、大事なもんを削りながら戦ってたんだな」
カイトは、無機質な瞳で自分を見下ろす漆黒の騎士を真っ直ぐに睨み返した。
かつてジークフリートも、愛する妹を救うためにこの『魂喰いの聖剣』を振るい、その代償として妹の記憶すらも奪われた。
「……なら、お前はもう十分に苦しんだ。休んでいい」
カイトが、聖剣を掴んだままの右手にさらに力を込めた。
真紅の黄金が、太陽のように激しく燃え盛る。それは、カイトの『地球でのすべての帰属意識』を完全に燃やし尽くした、文字通りの命懸けの光だった。
「おおおおおおッ!!」
バキィィィィンッ!!
カイトの魔力が、ジークフリートの絶対的な魔力障壁を貫通し、最強の聖剣を真っ二つにへし折った。
「――!?」
ジークフリートの体が、初めて大きくよろめいた。
「これで……最後だッ!!」
カイトはそのまま前へ踏み込み、真紅の光を纏った右の掌を、ジークフリートの漆黒の鎧の胸部――魔王の呪いの核へと、渾身の力で叩き込んだ。
「――【全因果・白紙化】!!」
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
カイトの手から放たれた極大の因果の波紋が、ジークフリートの体を貫き、はるか後方の真紅の雲までをも完全に吹き飛ばした。
「ア、ァ……、ァァァァァァッ!!」
ジークフリートの体を覆っていた禍々しい漆黒の鎧が、内側から弾けるように砕け散っていく。
『傲慢』という魔王の呪縛。空っぽになった魂に詰め込まれていた狂気。それらすべてが、カイトの代償の炎によって焼き尽くされ、完全に白紙へと還元されていく。
光の奔流が収まった後。
そこに立っていたのは、禍々しいバケモノではなかった。
美しい金糸の髪を持ち、ボロボロになった帝国の近衛騎士の服を纏った、気高くも悲しき青年の姿だった。
「……あ、れ?」
ジークフリートは、自身の血に塗れた両手を見つめ、ポツリと呟いた。
彼の瞳には、数百年間失われていた『人間としての知性』と、そして……深い悲哀の色が戻っていた。
「俺は……。そうだ、俺は……エリーゼを、妹の笑顔を取り戻すために……魔王の玉座へと向かって……」
聖剣に喰われ、魔王に奪われていた記憶。
燃え盛る帝都で、魔王軍に連れ去られていった愛する妹、エリーゼの泣き叫ぶ顔が、彼の脳裏に鮮明に蘇った。
「……思い出したか、皇子様」
胸から血を流し、肩で息をするカイトが、力なく笑いかけた。
ジークフリートはハッと顔を上げ、カイトを見た。
そして、周囲に倒れているルナリスたちの姿や、自分が破壊してしまった大地の惨状を見て、すべてを悟ったように静かに目を伏せた。
「……そうか。俺は、魔王に敗れ……心を壊され、お前たちの前に立ち塞がっていたのだな」
ジークフリートの体が、足元からゆっくりと、淡い光の粒子となって崩れ始めていた。
魔王の呪いが解けたことで、数百年前に死んでいたはずの彼の肉体が、本来の『死』を迎えようとしているのだ。
「すまない、見知らぬ勇者よ。……俺は、俺が守りたかったものを何一つ守れず、ただの害悪に成り果てていた」
ジークフリートの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「謝るな。あんたがどれだけ理不尽な想いをしてきたか、俺は知ってる」
カイトは、崩れゆく英雄の肩にそっと手を置いた。
「あんたの妹への想いも、この世界を救いたかったっていう執念も……全部、俺が引き継いであげるよ。だから、もう自分を責めるな」
その言葉に、ジークフリートは大きく目を見開いた。
そして、憑き物が落ちたような、憑き物が落ちたような、本当に穏やかな、年相応の青年の顔で微笑んだ。
「……なんて、力強い目をした男だ。お前なら、本当にあの絶望を……」
ジークフリートは、消えゆく右手をカイトの胸に当てた。
「俺の無念ごと、頼んだぞ。……新たなる、希望の光よ」
風が吹き抜ける。
かつて西の帝国を背負い、誰よりも気高く戦った第一皇子ジークフリートの魂は、朝焼けの空へと溶けるようにして、完全に消滅した。
後に残されたのは、真っ二つに折れた白銀の聖剣の柄だけだった。
「……ああ。任せとけって」
カイトは、その折れた剣の柄を拾い上げ、空に向かって小さく掲げた。
「カイト、様……ッ!」
ルナリスが、痛む体を引きずりながら駆け寄ってくる。フィオナとガウルも、互いに肩を貸し合いながら、カイトの元へと集まってきた。
「みんな、生きてるか……。よかった」
カイトは仲間たちの顔を見て、安堵の息を吐き、そのまま後ろへドサッと倒れ込んだ。
「カイト様!? しっかりしてください、すごい血が……!」
フィオナが泣き叫びながら、残った魔力を振り絞って治癒魔法をかけようとする。
「大丈夫だ……ちょっと、無理しすぎただけだ」
カイトは霞む視界の中で、ルナリスの顔を見上げた。
「……なあ、ルナリス」
「はい、はい! 何でしょうか、カイト様!」
カイトは、ふと、不思議そうな顔をして尋ねた。
「俺って……元の世界で、どんな顔をして、どんな家に住んでたんだっけ?」
「え……?」
ルナリスたちは息を呑んだ。
「……思い出せないんだ。俺の母さんの顔も、俺の名字も。……全部、真っ白になっちまった」
カイトはそう言って、自嘲するように笑った。
かつて、彼を形作っていた地球での記憶は、もう一欠片も残っていなかった。彼は今、本当に『この世界にしか存在しない、ただの天条海人』になってしまったのだ。
「カイト様……あなた、まさか私たちのために……ご自身の記憶を……ッ!」
ガウルが血を吐きながら慟哭し、ルナリスとフィオナも声を上げて泣き崩れた。
「泣くなよ。……その代わり、お前たちの顔は絶対に忘れないからさ」
カイトは、震える手で仲間たちの涙を拭い、ゆっくりと目を閉じた。
「少し、寝るわ。……起きたら、魔王の城に殴り込みだ」
無敵の能力と引き換えに、自らのすべてを失った青年の、静かで深い眠り。
だが、その覚悟の炎は、残された仲間たちの心に、決して消えない絶対の闘志として燃え移っていた。
魔王の玉座は、もう目の前だった。
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<beens 過去作>
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