第48話:忘却の代償と、微睡みを破る楔
純白の光を浴びた人間たちが、次々と武器を取り落とし、うっとりとした表情でその場に崩れ落ちていく。
「戦うなんて、疲れるだけだ……」
「この光の中にいれば、痛くも、辛くもない……」
彼らの瞳からは、先ほどまで燃えていた『反逆の意志』が完全に消え去っていた。
「くっ……! この光、俺の闘気まで……削ぎ落とそうと……」
前衛に立つ獣人ガウルですら、重厚な大剣を杖代わりにして、辛うじて膝をつくのを堪えている。
ルナリスが『黎明の神弓』を構えようとするが、その手が小刻みに震え、矢をつがえることができない。
「ようこそ、迷える子羊たち」
光の中心から現れた、六枚の漆黒の翼を持つ堕天使――【怠惰】のエルは、頭上の禍々しい輪を輝かせながら、残酷なほど穏やかに微笑んでいた。
「怒りも、悲しみも、希望すらも……すべては疲労を生むだけの無駄な感情です。さあ、思考を捨てて、永遠の『怠惰』の中で幸せに朽ち果てなさい」
エルの放つ狂信の光が、人々の闘志を「幸福な停滞」へと強制的に上書きしていく。
武力ではなく、心そのものを去勢する最悪の敵。
「……思考を丸投げしてるだけの引きこもりが、神様語ってんじゃねえよ」
静寂の中、カイトが低く冷たい声で言い放った。
カイトは、崩れ落ちる人々をかき分けるように前へ進み出た。
彼の右手が、目も眩むような黄金の光を帯びる。
「精神への強制干渉なんて、悪趣味な理だ。……こんなもん、俺が全部、白紙に戻してやる」
カイトが、エルの放つ巨大な光の壁に向けて、黄金の掌を突き出した。
「――【全因果・白紙化】!!」
その瞬間。
『――警告。対象の理の規模が、現有の許容量を大幅に超過しています』
カイトの脳内に響くステラの声に、かつてないほどの激しい苦痛の声が混ざった。
『これ以上の大規模な因果の改竄は、主の【根源情報の代償枠】……すなわち、元の世界の記憶の消費を伴います』
「……なんだと?」
カイトの思考が、一瞬だけ停止した。
ドォォォォンッ!!
カイトの右腕から放たれた黄金の波が、エルの純白の光と激突し、凄まじい反発を生み出す。
数百人の人間の精神を縛る強大な呪縛。それを一瞬で「なかったこと」に上書きするという、神の御業にも等しい奇跡。
その代償は、確かにカイトの精神を蝕んだ。
「――っ! あ、が……ッ!」
カイトは頭を押さえ、激痛に顔を歪めた。
脳裏に、一つの景色がフラッシュバックする。
地球の自室。いつも飲んでいた缶コーヒー。……休日に、一緒にゲームをして笑い合っていた友人の顔。
パチン、と。
脳内の古いフィルムが焼き切れるような音が響き、その『友人の顔と名前』が、カイトの記憶から完全に真っ白に塗り潰された。
(な……にが……? 今、俺は……何を忘れた……?)
カイトの背筋に、冷たい汗が伝う。
無敵だと思っていた自分の能力が、ただの魔法ではなく、『自分自身の過去と魂の形を削り取って』この世界の現実を塗り替えているという恐るべき真実に、初めて直面したのだ。
「カイト様……ッ!?」
ルナリスが異変に気づき、悲痛な声を上げる。
「……気に、するな……ッ!」
カイトは奥歯を噛み砕くほどの力で耐え、消えゆく記憶の喪失感を怒りに変え、さらに前へと踏み込んだ。
「俺が、ここで何者だったか忘れたとしても……。こいつらの尊厳まで、白紙にさせてたまるかァッ!!」
カイトの黄金の力が、かつてない激しい閃光を放ち、エルの光の壁を完全に粉砕した。
パリンッ! という硝子の割れるような音と共に、人々の精神を覆っていた『怠惰の呪縛』が霧散していく。
地面にへたり込んでいた人間たちがハッと息を呑み、再び瞳に怒りと熱を取り戻して武器を握り直した。
「な……に……?」
【怠惰】のエルは、自身の絶対の停滞が破られたことに驚愕し、目を見開いた。
「バカな……。私の光は、エアラ様から賜った至高の静寂! 苦痛も疲労もない、完璧な救済のはずだ! なぜ、わざわざ痛みを伴う『闘争』へと戻ろうとする……!」
「……痛みがねえのは、生きてるとは言わねえんだよ」
カイトは荒い息を吐きながら、エルとの距離を詰め、その胸倉を力強く掴み上げた。
「お前はただ、現実(痛み)から逃げて、石のオブジェの中で夢を見ていただけのガキだ」
「な、何を……! 私は、神の器として――」
「目を覚ませ、人形。……お前の甘い夢は、ここで終わりだ」
カイトの掌から、黄金の因果がエルの肉体へと直接流れ込んだ。
それは、彼を不死のバケモノとして縛り付けていた魔王の呪縛(黒水晶のオブジェとしての存在)を解き放ち、彼に再び「人間としての時間と痛み」を強制的に認識させる書き換えだった。
「――【強制起動】」
「あ……アァァァァァァァッ!!」
エルの背中から生えていた六枚の漆黒の翼が、内側から燃え上がるように崩れ落ちていく。
数百年分の『時の流れ』と、彼が目を背け続けてきた『現実の痛みと悲しみ』が一気に流れ込み、エルの狂信のメッキが剥がれ落ちていく。
「い、嫌だ……ッ! エアラ様、エアラ様ァッ……! 私は、まだ、貴女の傍で……夢を……!」
美しく残酷な女王への狂おしい執着を叫びながら、堕天使エルはカイトの手の中でボロボロの灰へと変わり、風に吹かれて消滅した。
平原に、再び重苦しい静寂が戻る。
「……カイト、様?」
ルナリスが恐る恐る近づいてくる。
カイトは振り返り、いつものようにふてぶてしく笑おうとした。
だが、その笑顔はどこかひきつっていた。自身の内側で、間違いなく「何か大切なピース」が永遠に欠落してしまったという虚無感が、彼を暗い恐怖で包み込んでいた。
「……悪い。少し、疲れただけだ」
カイトはそう言って、自身の震える右手を強く握りしめた。
代償なしのチートなど、存在しなかったのだ。
無敵の救世主は、少しずつ「自分自身」を削りながら、この絶望の世界を切り拓くしかなかった。
帝都グランディールは、まだ遠い。
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<beens 過去作>
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