第47話:閉ざされた玉座と、怠惰なる狂信の天使
王都グランディール、帝都宰相府。
薄暗い執務室の中で、ガラスが砕け散るような鋭い音が響いた。
「……バカな。あり得ん……ッ!」
帝国宰相レオンは、粉々にひび割れた水晶球を前に、血の気が引くのを感じていた。
【嫉妬】のリディアが敗れた。それだけではない。彼女を縛っていた魔王の呪い――肉体を腐敗させる代償そのものが、完全に「なかったこと」にされ、浄化されたのだ。
レオンの右半身を覆う漆黒の魔力結晶が、警告の鐘のように激しい脈動を打っている。
「等価交換の理を完全に無視した、奇跡の白紙化。……あれはもはや魔法などではない。この世界を根本から作り変える、神の御業そのものだ」
数百年間、圧倒的な強者として人類を家畜化してきたレオンの心に、初めて『恐怖』という感情が冷たい汗となって滲み出していた。
このままでは、あの規格外の男が帝都の城門を叩くのも時間の問題だ。
レオンは決意を固め、執務室を飛び出した。
向かう先は、大聖堂の最上階。魔王アラリックと女王エアラが籠る『玉座の間』である。事の重大さを伝え、真王自身の絶大な力で叩き潰してもらうほかない。
しかし。
玉座の間へと続く、重厚な黒曜石の扉の前に立ったレオンは、それ以上足を前に進めることができなかった。
扉の向こうからは、世界が崩壊の危機にあるというのに、ひどく甘く、退廃的な吐息と囁き声が漏れ聞こえてくる。
『……んっ、アラリック。今日のあなたは、少し乱暴ね……』
『貴女が美しすぎるからです、私の女王。外で羽虫が数匹死んだようですが……そんな些事、貴女の髪の一筋にも劣る』
「……ッ」
レオンは、扉に伸ばしかけた手をギリッと握りしめ、力なく下ろした。
あのお二人は、完全に「二人きりの世界」に没頭している。もし今、自分が「敵の侵攻を止められません」などと無能な報告をしてこの蜜月を邪魔すれば、カイトに殺されるよりも先に、アラリックの不興を買って塵にされるだろう。
「……お二人の平穏は、私が死に代えても守り抜く」
レオンは冷たい石の床に跪き、深く一礼してから背を向けた。
「あの忌々しい光の男は、希望という名の『熱』を伝染させている。ならば、その熱を根こそぎ奪い、思考を停止させる氷獄の泥沼へ沈めてやる」
レオンの双眸に、冷酷な決意が宿る。
「行け、【怠惰】のエルよ。貴様のその狂信の光で、反逆者どもを永遠の微睡みへ叩き落とせ」
――時を同じくして。
【強欲】の城、中庭。
空を覆っていた真紅の瘴気が、フィオナの極大魔法によって一部晴れ上がり、数百年前の「青空」が一条の光となって中庭を照らしていた。
「フィオナ。気分はどうだ?」
カイトが声をかけると、フィオナは静かに振り返り、小さく頷いた。
「大丈夫です、カイト様。……リディア様は、最後に微笑んでくれました。私の魔法が、あの方を呪縛から解き放つことができた。今はただ、それが誇らしいんです」
彼女の白い頬にはまだ涙の痕があったが、その瞳には、かつての恩人を乗り越えた確かな強さが宿っていた。
「そうか。お前は強いな」
カイトは優しく彼女の頭を撫でると、中庭に整列した人々へと向き直った。
そこには、もはや「家畜」の姿はなかった。
かつての英雄たちの遺物である剣や槍を握りしめ、粗末な鎧を身に纏った数百の人間たち。ガウルが前衛の陣形を整え、ルナリスが『黎明の神弓』を掲げて彼らを鼓舞している。
「みんな、準備はいいか」
カイトの声に、数百の意志が静かなる闘気となって応えた。
「俺たちの目的地は、魔王がふんぞり返ってる帝都グランディールだ。道のりは長いし、バケモノもウジャウジャいるだろう。……でも、俺が全部、道をこじ開けてやる。あんたたちは、自分の足で、自分の世界を取り戻すために歩いてくれ」
「おおおおおおおッ!!」
地鳴りのような鬨の声が、荒野に響き渡る。
ここに、カイトを筆頭とする『人類反乱軍』が正式に発足し、帝都へ向けた大行進が開始されたのだった。
進軍は順調だった。
道中襲い来る魔物の群れは、ガウルの咆哮とフィオナの魔法で瞬散し、漏れた敵は士気を取り戻した人間たちが集団戦法で確実に仕留めていく。誰もが、カイトの背中を追えば必ず勝てると信じていた。
しかし、帝都までの中間地点に広がる『嘆きの平原』に差し掛かった時。
突如として、進軍の足音がピタリと止まった。
「……なんだ、これは?」
前衛を歩いていたガウルが、怪訝そうに目を細めた。
平原の先から、目も眩むような『純白の光』が波のように押し寄せてきたのだ。
それは一見すると、神聖で温かく、すべての傷を癒やしてくれるような慈愛の光に見えた。
だが、その光を浴びた瞬間、反乱軍の人間たちの様子が劇的に変化した。
「あ……あれ……? 俺たちは、何のために、こんな重い剣を持ってるんだ……?」
「戦うなんて、疲れるだけだ……。この光の中にいれば、痛くも、辛くもない……」
カラン、カランと。
人間たちが次々と手から武器を取り落とし、うっとりとした表情でその場にへたり込み始めたのだ。彼らの瞳から「怒り」も「意志」も、急速に失われていく。
「おい、どうした! しっかりしろ!」
ガウルが揺さぶるが、男たちは「もう、どうでもいいよ……眠らせてくれ」と、赤ん坊のように笑って目を閉じてしまう。
「カイト様! これは……精神を強制的に弛緩させる、強力な催眠の魔力です!」
ルナリスが神弓の浄化の力で必死に光を弾きながら叫んだ。
その純白の光の中心から、ゆっくりと宙を滑るようにして「それ」は現れた。
背中から巨大な漆黒の翼を六枚生やし、頭上に禍々しい黒い輪を浮かべた、少年の姿をした堕天使。
かつて、神の奇跡を降ろす【器の少年】と呼ばれながら、女王エアラの美しさに魅了されて狂信者と化した成れの果て――【怠惰】のエルだった。
「ようこそ、迷える子羊たち」
エルは、両手を胸の前で組み、うっとりとした恍惚の笑みを浮かべていた。
「真なる神、エアラ様の御前で争いなど無意味。怒りも、悲しみも、希望すらも……すべては疲労を生むだけの無駄な感情です。さあ、思考を捨てて、永遠の『怠惰』の中で幸せに朽ち果てなさい」
エルの放つ狂信の光が、人々の闘志を「幸福な停滞」へと強制的に上書きしていく。
武力ではなく、心そのものを去勢する最悪の敵が、カイトたちの行く手を塞いだのだった。
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<beens 過去作>
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