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渇きの聖域 —— 聖女の毒を啜る異形騎士の狂愛  作者: beens
第5章:夜明けの残光、あるいは再誕の救世主

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第46話:泥濘の防衛戦と、美しき魔女の終劇

大地を切り裂くように口を開けた、純白の光を放つ巨大なクレバス(断層)。

カイトが【因果の改竄】によって生み出した絶対防衛の境界線を前に、西方から押し寄せた数万の腐肉の魔物たちは、次々とその深淵へと落ちていった。

だが、魔王軍の数はあまりにも多すぎた。

後から後から押し寄せる魔物の群れは、仲間の死骸を足場にし、あるいは互いの肉を絡め合わせて醜悪な「肉の橋」を作り出し、少しずつクレバスを越えようと這い上がってくる。

「……来させねェッ!!」

獣人ガウルが咆哮を上げ、城壁から飛び降りた。

彼の一撃が大地を砕き、這い上がってきた魔物たちをまとめて吹き飛ばす。痛覚を失った彼の拳は無尽蔵の威力を誇ったが、それでも敵の数は一向に減らない。

「怯まないで! 私たちも続くのよ!」

ルナリスが叫び、白銀に輝く『黎明の神弓』を引き絞る。

放たれた光の矢が魔物の群れに着弾し、清らかな爆発を起こして浄化していく。

その二人の奮闘に背中を押されるように、城の門前では、洗脳から解き放たれたばかりの人間たちが武器を構えていた。

彼らの手は震え、足は竦んでいる。しかし、誰一人として逃げ出そうとはしなかった。かつての英雄たちの遺物――剣や槍を必死に突き出し、防衛線を死守している。

それは、決して華麗な戦いではない。泥と血に塗れた、生きるための必死の足掻きだった。

「……よくやってる」

城壁の上からその光景を見下ろしていたカイトは、静かに呟いた。

彼が指先一つ振るえば、魔物の群れなど一瞬で消し去れる。だが、数百年間「家畜」として尊厳を奪われてきた彼らが、自らの足で立ち上がり、恐怖を乗り越えるこの瞬間だけは、誰にも奪ってはいけないような気がしたのだ。

しかし、その泥臭い希望の光を、圧倒的な絶望の波が飲み込もうとしていた。

「ああ……ああぁッ! 憎い、憎いわぁ……ッ!!」

地鳴りのような怨嗟の声と共に、魔物の群れを割って、巨大な泥の肉塊が進み出てきた。

【嫉妬】のリディア。

かつて世界を救うために禁忌の魔術に手を染め、代償として美しい皮膚を失い狂乱した大魔術師。泥のように腐敗した肉の山から、辛うじて女性の上半身だけが突き出している。

彼女が放つ『嫉妬の呪詛』が周囲の空気を毒に変え、城を守っていた人間たちが次々とむせ返り、膝をついた。

「どうして、お前たちは笑えるの……! 私がこんなに醜く、痛みに苛まれているというのに……!」

リディアの落ち窪んだ眼窩が、城壁の上に立つ一人の少女を捉えた。

「……あ、あぁ……。フィオナ、私の可愛い弟子。お前は、なぜそんなにも美しいの……? 私の術式を継いだはずなのに、なぜ皮膚が剥がれていないの……ッ!」

「リディア、様……」

フィオナは唇を噛み締め、ローブの裾を強く握りしめた。

かつて、最も尊敬していた偉大な魔女。世界のためにすべてを犠牲にした彼女が、今やただの醜い怨霊として利用されている。

「許さない……ズルイ、ズルイわ! お前も私と同じように、肉を削ぎ落としてあげるッ!」

リディアの咆哮と共に、腐敗した泥の津波がクレバスを越え、城壁に立つフィオナ目掛けて一気に襲いかかった。それは、触れるものすべてを溶かす猛毒の呪いだった。

「下がれ、フィオナ!」

カイトが前に出ようとした瞬間、フィオナはそれを手で制した。

「いいえ、カイト様。……これは、私の役目です」

フィオナは一歩も引かず、白く滑らかな両手を前へと突き出した。

「私は、あなたから教わった魔法を誇りに思います。……そして、カイト様が与えてくださったこの痛みのない体で、あなたの悲しい呪いを終わらせる!」

フィオナの全身から、これまでにないほど膨大な魔力が溢れ出す。

「極大魔術――『天上の業火(プロミネンス・バースト)』!!」

少女の掌から放たれた純白の炎が、襲い来る泥の津波と真っ向から激突した。

轟音と共に周囲の空気が焼け焦げ、凄まじい熱波が戦場を包み込む。代償を支払うことなく放たれるフィオナの魔法は、かつてのリディアすらも凌駕する威力を誇っていた。

「アアァァァァッ!! 熱い、熱いわフィオナ! 憎いぃッ!」

「ごめんなさい……ごめんなさい、リディア様……ッ!」

炎で泥を焼き払いながら、フィオナの大粒の涙が頬を伝う。

師を討たねばならない悲痛な叫びが、戦場に響き渡る。圧倒的な魔法の撃ち合い。しかし、フィオナの心は確実に削られていた。

「……もう十分だ。よく頑張ったな、フィオナ」

不意に、優しく、しかし絶対的な安心感を伴う手が、フィオナの小さな肩に置かれた。

気がつけば、カイトが彼女の隣に立っていた。

「カイト、様……」

「恩人を自分の手で燃やすなんて、お前のやる仕事じゃない」

カイトはフィオナの前に出ると、燃え盛る炎と泥の境界線――その凄惨な嵐の中心へと、何の防壁も張らずに歩み出た。

「おのれぇ……! その憎き奇跡の光、私に寄越せェッ!!」

リディアの巨大な泥の腕が、カイトを握り潰そうと迫る。

「……あんたがどんな思いでその魔法に手を出したか、俺には分からない」

カイトは、迫り来る泥の塊を見据えたまま、静かに口を開いた。

「でも、自分の身を削ってまで誰かを守ろうとしたあんたの心は、決して醜くなんかない」

カイトの右腕が、黄金の光を帯びる。

「この世界の理不尽なルール(代償)なんて、俺が全部、白紙に戻してやる」

迫る泥の腕に、カイトが静かに掌を合わせた。

「――【全因果・白紙化(オール・オーバーライト)】」

カイトの手から放たれた黄金の波紋が、泥の腕を伝い、リディアの巨大な肉塊全体へと瞬く間に広がっていった。

『嫉妬』という呪縛。肉体を腐らせる『魔法の代償』。それらすべてを形成していた理(ことわり)が、カイトの圧倒的な力によって、根こそぎ「なかったこと」に上書きされていく。

「あ……れ……?」

呪いの泥が、光の粒子となってポロポロと崩れ落ちる。

その中から現れたのは、悍ましい肉塊ではなかった。美しく透き通るような白い肌と、穏やかな微笑みを湛えた、生前の若き大魔術師リディアの幻影だった。

「……痛みが、ない」

リディアの幻影は自身の両手を見つめ、そして、泣き崩れているフィオナへと視線を向けた。

「フィオナ……。私の遺した魔法を、そんなにも美しく咲かせてくれて……ありがとう」

「リディア様……ッ、ああぁ……ッ!」

「カイト……と言ったかしら」

光となって天へ昇り始めたリディアは、カイトに向けて深く頭を下げた。

「私を、あの狂おしい痛みと嫉妬から救い出してくれて、感謝します。……どうか、この悲しい世界を、あなた方の手で……」

慈愛に満ちたその言葉を最後に、魔女リディアの魂は、朝霧のように静かに消え去った。

主を失った数万の魔物の群れは、統率を失って霧散し、あるいは光のクレバスへと落ちて自滅していった。

静寂が戻った戦場で、フィオナのむせび泣く声だけが響いている。

カイトは何も言わず、ただ彼女が泣き止むまで、その小さな背中を優しく撫で続けていた。

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<beens 過去作>

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