第4話:揺れる箱庭と、声なき罰の蜜
夜の帳が下りた街道を、馬車の車輪が軋む音だけが単調に響いていた。
王都への帰路を急ぐため、討伐隊は夜通しの行軍を決定した。松明の灯りを頼りに進む騎士たちの輪の中心で、豪奢な装飾が施された一台の馬車が揺れている。
その狭く薄暗い車内に、アラリックは膝をついていた。
「……申し訳、ありません。エアラ……様」
本来であれば、隊長である彼が外で指揮を執るべきだ。しかし、「昼間の奇跡の反動で疲労しているアラリック様へ、祈りの癒しを与えます」というエアラの絶対的な一言により、彼は部下たちの目を逃れてこの密室へと引きずり込まれていた。
分厚いビロードのカーテンが引かれた車内は、外の冷気とは対照的にひどく蒸し暑い。
いや、アラリックの体温が異常に上がっているのだ。
目の前の長椅子に浅く腰掛けるエアラから漂う、むせ返るような甘い匂い。それが狭い空間に充満し、アラリックの鼻腔から脳髄へと直接まとわりついてくる。
「謝ることはありませんよ、アラリック。ただ……少しだけ、悲しかったのです」
エアラは静かに微笑みながら、純白の手袋をゆっくりと外した。
「あんな泥水のような下等な魔獣の血を、口にしようとするなんて。……私の与えたものが、足りなかったのかしら?」
「違っ……! あれは、抑えきれず……ッ」
「しっ」
エアラの人差し指が、アラリックの震える唇に押し当てられた。
すぐ外からは、馬の蹄の音と、若き副官レオンたちの話し声が聞こえている。板一枚を隔てただけの至近距離だ。
「外に聞こえてしまいますよ。私たちの、神聖な『治療』の邪魔をされたくはないでしょう?」
その声は優しく、しかし絶対的な支配者の響きを帯びていた。
アラリックは息を呑んだ。
彼女は手袋を外した剥き出しの腕を、アラリックの顔の前に差し出した。透き通るような肌の下に、青く脈打つ血管が透けて見える。
「昼間の不味い記憶は、私が上書きしてあげます。……でも、悪い子には『罰』が必要ですわね」
エアラは自身のもう片方の手で、細い銀のヘアピンを抜き取ると、躊躇いもなく己の手首にスッと赤い線を引いた。
ぷっくりと膨れ上がる、黄金にも似た鮮血の雫。
途端に爆発した濃密な匂いに、アラリックの喉の奥から「ヒュッ」と情けない音が漏れた。犬歯がじんじんと熱を持ち、鋭く伸びていくのがわかる。
「お飲みなさい。……ただし、絶対に『声』を出してはいけませんよ。もし外の騎士たちに聞かれたら、その時は……分かっていますね?」
アラリックの瞳孔が開いた。
声を出さずに、この熱狂を飲み込めというのか。
だが、拒否する理性など、とうの昔に彼の中から消え失せていた。
アラリックは弾かれたように彼女の腕にすがりつき、その手首に深々と牙を立てた。
「――――ッ!!」
声にならない絶叫が、アラリックの脳内で弾けた。
熱い。甘い。濃密すぎる。
昼間に味わった魔獣の血など、本当に泥水以下のゴミに過ぎなかった。彼女の傷口から溢れ出し、舌の上を滑り落ちていくその液体は、アラリックの干からびた全細胞を一瞬にして歓喜の絶頂へと叩き落とした。
ガタゴトと馬車が揺れるたび、彼女の柔らかな太ももがアラリックの肩に触れる。
あまりの快感に、アラリックの背骨が大きく反り返り、喉の奥から獣のような喘ぎ声が漏れそうになる。
「……ん、ふふ。駄目ですよ、堪えなさい」
エアラは痛がる素振りも見せず、空いた手でアラリックの汗ばんだ金髪を優しく撫でた。そして、あろうことか、彼の頭を自身の胸元へとさらに強く引き寄せたのだ。
息ができない。しかし、血の流入は止まらない。
快楽と窒息、そして「外の部下にバレてはいけない」という極限の緊張感が、アラリックの精神をドロドロに溶かしていく。
その時だった。
『――聖女様、アラリック隊長。間もなく夜営地に到着いたしますが、ご加護の祈りは終わりましたでしょうか?』
窓の外から、レオンの声が響いた。
アラリックの心臓が跳ね上がった。牙を突き立てたまま、全身を強張らせて動きを止める。
血を啜る音が聞こえたら。この異形の姿を見られたら。すべてが終わる。
しかし、エアラは全く慌てることなく、アラリックの頭を撫でたまま、窓の外へ向かって透き通るような声で答えた。
「ええ、レオン。神の御心により、隊長は深い『安らぎ』を得られたようです。もう少しだけ、このまま祈りを続けさせてくださいな」
『はっ! 承知いたしました!』
レオンの馬が少し離れていく音がした。
アラリックは、恐怖と、それ以上の凄まじい背徳感に打ち震えていた。
誇り高き部下を騙し、神聖な聖女の言葉で偽りながら、その実、自分は彼女の血を貪る醜い化物に成り下がっている。
「……ほら、アラリック。私の可愛い騎士様。……いいえ、私だけの従順な獣」
エアラは、アラリックの耳の裏をそっと指でなぞりながら、甘く、酷薄に囁いた。
「もうあなたは、私の庇護がなければ生きていけない。……もっと、もっと深く、私に溺れなさい」
アラリックの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは失った人間としての誇りへの哀悼か、それとも、彼女の与える絶対的な支配への『歓喜の涙』か。
揺れる馬車の箱庭の中で、夜の闇よりも深く、黒い共依存の鎖が完全に結びついたのだった。
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