第3話:暴走する捕食者と泥水の味
「隊長、顔色が優れませんが……。昨夜はよく眠れなかったのですか?」
王都へと続く森の街道。馬上のアラリックに、若き副官レオンが心配そうに声をかけてきた。
アラリックは目深に被った兜の奥で、小さく舌打ちをしたくなる衝動を必死に抑え込んだ。
兜の隙間から差し込む木漏れ日が、まるで熱した針のように彼の皮膚をチクチクと焼くからだ。
「……問題ない。ただの疲労だ」
自身の口から出た声に、アラリック自身が微かに震えた。
かつてのよく通る騎士の声ではない。地を這うような、威圧的で低い獣の響きが混じっていた。
レオンがビクッと肩を震わせ、気圧されたように馬を少しだけ遠ざけたのが視界の隅に入った。
(落ち着け。私は……人間の騎士だ)
手綱を握る指先に力を込める。しかし、ガントレットの下にある己の爪が、硬く鋭く変質しているのを感じるたび、昨夜の甘美で恐ろしい『聖餐』の記憶が蘇り、脳が熱く沸騰しそうになる。
後ろを進む馬車の中には、エアラがいる。彼女の体温、彼女の血の匂い。その気配が背後にあるだけで、アラリックの喉はカラカラに渇き、内なる「怪物」が喉を鳴らして暴れようとしていた。
その時だった。
「――ッ! 全員、武器を抜け!」
アラリックは突如、大音声で叫んだ。
部下たちが何事かと戸惑うより早く、森の深部から異様な獣の咆哮が轟いた。
木々をなぎ倒し、街道に飛び出してきたのは、四つん這いの巨大な異形の獣たち――「狂化狼」の群れだった。
通常の狼の三倍はあろうかという巨躯に、どす黒い瘴気を纏っている。
「な、なんだこの数は!? 陣形を組め、聖女様の馬車をお守りしろ!」
レオンが叫び、騎士たちが剣を抜く。しかし、魔獣の動きは彼らの動体視力を凌駕していた。
一匹の狂化狼が、レオンの喉笛を目掛けて飛びかかる。
「しまっ――」
レオンが死を覚悟し、目を閉じた瞬間。
――ドギュンッ!!
爆発のような音が弾け、レオンの顔に生温かい液体が降り注いだ。
目を開けたレオンは、絶句した。
飛びかかってきた巨大な狂化狼が、空中で「真っ二つ」に両断され、内臓と血の雨を降らせて地に落ちたのだ。
その血の雨の中に、アラリックが立っていた。
手にした大剣は、彼自身の人間離れした膂力に耐えきれず、刀身の中ほどから無残に砕け散っている。
「隊、長……?」
「グルル……ッ」
アラリックの喉から漏れたのは、言葉ではなく威嚇の唸りだった。
魔獣の血を浴びた瞬間、彼の中で何かが完全に弾けてしまった。
剣が折れたことなど気にも留めない。アラリックは残りの魔獣の群れに向かって、自ら跳躍した。
「ガアアッ!」
迎え撃とうとした二匹目の狼の頭部を、アラリックは素手で鷲掴みにした。
ガントレット越しに伝わる、頭蓋骨の感触。
そのまま、彼はまるで熟れた果実を握り潰すように、異常な握力で魔獣の頭部を粉砕した。
「ああ……あ、あはは……!」
飛び散る脳漿と血の飛沫。
アラリックの兜の下で、狂気に満ちた笑みがこぼれる。
圧倒的な暴力の行使。命を奪い、引き裂く瞬間の生々しい感触が、彼の神経を麻痺させ、背徳的な全能感で満たしていく。
彼は獲物の血で濡れた自分の指を、無意識のうちにペロリと舐め取った。
(……不味い)
途端に、強烈な吐き気が彼を襲った。
泥水だ。ドブの底に溜まった腐肉のような味がする。
あの夜、エアラの首筋から啜った、あの至高の「蜜」とは比べ物にならない。
こんな下等な血では、私の『渇き』は一滴も潤わない!
「足りない……ッ!! こんなものでは……!!」
不快感と飢餓感が、さらにアラリックの狂気を加速させた。
彼は折れた剣の柄を放り捨て、素手で魔獣たちを次々と引き裂いていく。腕をもぎ取り、背骨をへし折り、血と臓物を街道に撒き散らす。
それは騎士の戦いではなかった。より凶悪な『上位の捕食者』による、一方的な虐殺と蹂躙だった。
数分後。
街道は、元の形を留めていない魔獣の死骸と、血の池に沈んでいた。
「……はぁ、はぁっ……」
返り血で真っ赤に染まったアラリックが、荒い息を吐きながら立ち尽くす。
周囲は静まり返っていた。
部下の騎士たちは誰一人として剣を振るっていない。ただ、恐怖に顔を歪め、自分たちの『隊長だったもの』を震えながら見つめている。
「隊長……。あなたは、一体……」
レオンの声は、完全に怯えきっていた。
その声で、アラリックはハッと我に返った。
己の血塗られた両手を見る。素手で魔獣を引き裂き、あろうことかその血を啜ろうとした自分。
隠しきれない異形の力が、白日の下に晒されてしまった。
(終わった。私は、化物として……ここで討たれるのか)
絶望がアラリックの胸を締め付けた、その時。
「素晴らしい戦いぶりです、アラリック様」
静寂を破り、馬車から純白の修道服を血の海に引きずりながら、エアラが降りてきた。
彼女は怯える騎士たちを一瞥すると、透き通るような声で告げた。
「皆様、恐れることはありません。昨夜、神は彼に『聖なる奇跡』をお授けになりました。この力は、邪悪な魔獣を打ち払うための、神の怒りそのものなのです」
息を吐くように放たれた、美しい嘘。
聖女の絶対的な権威による言葉に、レオンたちは戸惑いながらも、次第に「奇跡」という都合の良い言葉に安堵の表情を浮かべ始めた。
エアラはそのままアラリックに歩み寄り、彼の手から滴る汚らわしい血を、自身の白いハンカチで優しく拭い取った。
そして、周囲の誰にも聞こえない声で、彼の耳元に唇を寄せて囁いた。
「……私の血の味が恋しくて、我慢できなかったの? 拾い食いをするなんて、本当に悪い子ですね」
「……ッ!」
アラリックの背筋を、強烈な快感が突き抜けた。
自分が完全な化物であることを突きつけられながら、同時に彼女の絶対的な庇護下(支配下)にあるという事実。
部下たちに見られている白昼の街道で、彼女の言葉だけで、アラリックの体は熱く火照り、身悶えするほどの屈服の喜びに打ち震えていた。
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