第39話:痛みなき咆哮と、最初の剣
教皇領の廃墟から南へ下ること数時間。
真紅の雲から降る灰色の雪を抜け、カイトとルナリスは最寄りの人間の居住区――『第七・血肉供給区』の丘の上へと辿り着いた。
「……ひでぇ有様だな」
眼下に広がる光景に、カイトは思わず眉をひそめた。
かつては活気があったであろう城塞都市。しかし今は、建物の多くが崩れかけ、街を囲む壁は「外敵を防ぐ」ためではなく「中の人間を逃がさない」ための鉄柵へと変貌していた。
広場には、ボロ布を纏った数百人の人間たちが、生気のない虚ろな瞳で長い列を作っている。彼らの首元には、魔族の所有物であることを示す赤黒い『等級刻印』が痛々しく焼き付いていた。
列の先頭では、豚のように太った中級魔族が、人間たちの腕から無造作に血を抜き取り、巨大な魔力樽へと注ぎ込んでいる。
悲鳴はない。人間たちは痛みにすら慣れきり、ただ己の血が「至高の女王を飾る糧」となることに、歪んだ幸福感すら抱いているようだった。
「あれが、血税……。人間を完全に飼い慣らした、絶望の完成形です」
ルナリスが唇を噛み締め、目を伏せる。
「洗脳の極みってやつか。……ん?」
カイトの視線が、広場の片隅で鎖に繋がれている巨漢の奴隷に止まった。
頭部には獣の耳、隆起した筋肉は傷だらけだ。彼は数人の下級魔族たちから、娯楽のように太い鞭で打たれ続けていた。
『――【天啓の導き(アプレイザル・ボイス)】。対象を解析します』
脳内に、女神の透き通るような声が響く。
『対象:獣人族の青年、ガウル。かつて魔王に敗れた勇者【剛力】バルダスの血を引く末裔です。彼は固有スキル【激痛の加護】を保有していますが、力を引き出すためには、自身の肉体を内側から引き裂くほどの強烈な痛みを代償とする呪縛に縛られています』
「……なるほどな。先祖の代から、痛い思いをしなきゃ戦えないってわけか」
「カイト様?」
「ちょっと、あの鎖をぶっ壊してくる」
カイトは準備体操をするように首を鳴らすと、丘の斜面を迷うことなく蹴り下った。
――第七供給区・中央広場。
「ほらほら、どうした獣人! 貴様ら一族は『霜降り肉』として女王様の食卓に上るのが最大の誉れだろうが! 少しは極上の痛みで肉を柔らかくしておけ!」
魔族の鞭が、ガウルの背中を無慈悲に打ち据える。
「ガハッ……!」
血を吐きながらも、ガウルは鋭い牙を剥き出しにして魔族を睨みつけていた。
(俺は……誇り高きバルダス一族の末裔だ。家畜になど、成り下がってたまるか……ッ!)
ガウルは縛られた腕に力を込める。
彼の中に眠る【激痛の加護】が発動し、筋繊維がブチブチと千切れる凄まじい激痛が全身を駆け巡った。
「グォォォォォオオオッ!!」
痛みを対価に爆発的な筋力を得たガウルが、腕に巻き付いていた鋼鉄の鎖を強引に引きちぎる。
「チッ、また発作か! 鬱陶しい獣のクズめ、足を切り落として血だるまにしてやる!」
魔族が剣を振り上げ、ガウルの膝目掛けて振り下ろそうとした。
限界を超えた痛みに視界を白滅させていたガウルには、それを避ける力はもう残されていなかった。
(ここまで、か……)
彼が死を覚悟した、その瞬間。
ドゴォォォォォォンッ!!!
空から降ってきた「何か」が、ガウルを処刑しようとしていた魔族の頭上に直撃した。
石畳がすり鉢状に粉砕され、濛々と土煙が舞い上がる。
「……なんだと!?」
「空から、人間が降ってきたぞ!?」
周囲の魔族たちが驚愕の声を上げる中、土煙の中からゆっくりと立ち上がる影があった。
ただの跳躍からの着地。それだけで、中級魔族を物理的に圧殺した青年――カイトだ。
「上空からの奇襲ってのは、単純だけど効くんだよな」
カイトは服の砂埃を払いながら、呆然とする魔族たちを見回した。
「き、貴様ぁ! 首輪もついていない野生の人間が、我ら魔王軍に刃向かうつもりか!」
「刃向かう? 違うな」
カイトは右手を軽く前に突き出した。
「害虫駆除だよ。――【神罰:黎明の裁定】」
光の奔流が、広場にいた十数名の魔族たちを一瞬にして飲み込んだ。
断末魔すら残らない。圧倒的な熱量と神聖魔力によって、彼らは瞬きする間に黒い灰となって空間から消滅した。
後に残ったのは、状況を理解できず震える数百人の人間(家畜)たちと、膝をついたまま目を丸くしている獣人ガウルだけだった。
「な、なんだ……あんたは……」
ガウルは、全身を襲う激痛に耐えながら、目の前の常識外れな青年に問いかけた。
「俺はカイト。ちょっとばかし、この世界のルールを変えに来た」
カイトはガウルの前にしゃがみ込むと、血に塗れた彼の胸に掌を当てた。
「ガハッ……! や、やめろ、俺に触れるな! 俺の力は、痛みを対価に……」
「そう、それだよ。痛い思いをして手に入れた力なんて、ちっともカッコよくないだろ?」
カイトの瞳が、不敵な光を帯びる。
「【因果の改竄】」
カイトの手から黄金の魔法陣が展開され、ガウルの体内へと浸透していく。
直後、ガウルの体を縛り付けていた「激痛」という制約(代償)が、カイトの圧倒的な権能によって文字通り『消去』された。
「……あ、れ?」
ガウルは己の手を見つめた。
痛みが、ない。
それどころか、かつて激痛と引き換えに得ていた強大な力が、まったくのノーリスクで全身の細胞に満ち溢れている。
先祖代々、一族を苦しめてきた血の呪縛が、たった数秒で消え去ったのだ。
「お前の『激痛の加護』の代償をゼロにして、純粋な『身体強化』に上書きしといた。これなら、もう痛みなしでフルパワーが出せるだろ?」
カイトは立ち上がり、ニッと笑いかけた。
「あり得ねぇ……。俺たち一族が数百年間、どう足掻いても逃れられなかった代償を……こんな、一瞬で……ッ!」
遅れて丘から駆け下りてきたルナリスが、ガウルの傍らに跪き、優しく告げる。
「ガウル。この方は、理不尽な絶望を終わらせるために現れた、神の奇跡そのものです」
ガウルは震える足で立ち上がると、そのままカイトの前に深く、深く傅いた。
誇り高き獣人の戦士の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「カイト……様。俺は、俺たち一族は、この痛みなき真の力で……魔王の首を獲る日を夢見ていました」
ガウルは額を地面に擦り付け、咆哮のような声で誓った。
「俺の命、俺の牙! すべてあなたに捧げます! どうか、俺をあなたの剣としてお使いください!」
「よろしく頼むぜ、ガウル。まずは……」
カイトは、呆然と立ち尽くしている広場の人間たちへと視線を向けた。
魔族がいなくなっても、彼らは逃げるどころか「貢物(血)を捧げる相手がいなくなってしまった」と怯え、泣き崩れている者すらいた。
数百年にわたる洗脳。家畜としての平穏。
これを解き放つのは、魔族を倒すよりもはるかに骨が折れそうだった。
だが、カイトの辞書に諦めという文字はない。
(ここからが、本当の異世界改革ってやつだな)
新たな仲間を加え、カイトの瞳はまっすぐに、遠く離れた帝都の空――魔王の玉座へと向けられていた。
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