第38話:箱庭の常識と、疼き出す亡霊の傷跡
教皇領の廃墟、崩れかけた大理石の祭壇。
空を覆っていた真紅の雲は再びゆっくりと閉じようとしていたが、祭壇の周囲だけは、カイトが放った純白の魔力によって温かな光に包まれていた。
「……立てるか、お姫様?」
差し伸べられたカイトの手を、ルナリスは震えながら両手で握りしめた。
その手は、魔族のように冷たくも、硬くもなく、確かに血の通った人間の温もりを持っていた。
「あ、ありがとうございます……。私は、ルナリス。かつてこの教皇領を治めていた血族の末裔です」
「俺は天条海人。まあ、遠い所から呼ばれてきた迷い人ってとこかな」
カイトは屈託なく笑い、ルナリスを立たせた。
彼女は自身の体を見下ろし、信じられないというように何度も瞬きをする。
「本当に、私の命は吸われていない……。先ほどの凄まじい光の魔力、本来であれば、術者の命だけでなく、この周辺の生命すらも枯らしてしまうはずなのに」
ルナリスは不思議そうに呟き、カイトの顔を祈るように見上げた。
「……カイト様。あなた様は、神が遣わした『代償なき奇跡の具現者』なのですか?」
「神様ねえ」
カイトは、真っ白な空間で女神ステラから受けた無茶ぶりを思い出し、軽く肩をすくめた。
「ただの現代人だよ。でも、あんたたちがどれだけ酷い世界に生きてるかは、少しだけ聞いてきた」
カイトが祭壇の瓦礫に腰を下ろすと、ルナリスは深刻な面持ちで彼に向き合った。
彼女の口から語られるのは、この世界がどれほど深く、静謐な地獄として完成しているかという事実だった。
「……現在、大陸の大半は、魔王アラリックと女王エアラが作り上げた『愛の庭(箱庭)』に飲み込まれています」
「愛の庭……って、要は魔王の領地だろ?」
ルナリスは首を横に振り、悲痛な顔で告げた。
「いいえ。……人間たちは、自ら望んでその檻に入っています。首に『等級刻印』を刻まれ、自らの血肉を女王の美しさを保つための貢物として捧げ続ける。彼らはそれを『至上の幸福』だと教え込まれ、考えることすら放棄してしまった家畜なのです」
「家畜……」
カイトの眉がピクリと動いた。
人間が、バケモノたちの食料になるために喜んで首を差し出す世界。
「そして、私たちが抵抗しようにも……この世界で奇跡(神の力)を使うには、必ず己の命や記憶、尊厳を『代償』として支払わなければなりません。そうやって、かつての勇者様たちも……皆、心を壊され、魔王に喰われてしまったと伝わっています」
ルナリスは両手で顔を覆い、小さく嗚咽を漏らした。
彼女が背負ってきた絶望と諦念は、現代日本で平和に生きてきたカイトの想像を絶する重さだった。
だが。
「……ふざけた世界だな」
カイトは、吐き捨てるように言った。
その声には、恐怖も悲痛も、絶望すらも混ざっていなかった。
ただ、純粋な怒りがあった。
「人を家畜扱いする上に、奇跡を起こすのに命まで寄越せだと? どんだけブラックなシステムだよ」
「カイト、様……?」
ルナリスが顔を上げると、カイトは力強く立ち上がり、彼女の肩をポンと叩いた。
「安心しろ、ルナリス。俺が持ってきたこの力――【因果の改竄】はな、そのふざけた世界のルール(代償)を、根こそぎ『上書き』するためにあるんだ」
「上書き、ですか?」
「ああ。魔王だろうが女王だろうが、俺がぶん殴って、その狂った常識ごと叩き直してやるよ」
カイトの不敵な笑顔に、ルナリスは息を呑んだ。
数百年間、誰も魔王たちに対してこんなふうに笑うことはできなかった。
(この方なら……本当に、この永遠の絶望を終わらせることができるかもしれない)
ルナリスの胸に、数百年ぶりに小さな、だが決して消えない『希望の火』が灯った瞬間だった。
――同じ頃。
王都グランディール、帝国中枢・宰相府。
「……馬鹿な」
数百年間、一度たりとも感情を乱したことのない帝国宰相レオンが、水晶球を見下ろして低く呻いた。
彼の右半身を覆う漆黒の魔力結晶が、不快な熱を持って疼いている。
水晶球が映し出しているのは、大陸最北端の教皇領。
そこで観測されたのは、あり得ない現象だった。
「あの強大な神聖魔力……。間違いなく、最上位の神の奇跡だ。だが、なぜだ? 代償が支払われた形跡(生命力の消失)が、どこにも見当たらんぞ」
等価交換の法則は、この世界の絶対の理だ。
それを無視してこれほどの奇跡を行使するなど、世界そのものを否定する行為に等しい。
「……まさか、かつての勇者どものように、己の命すべてを燃やし尽くした最後の一撃か?」
レオンは無意識に、自身の胸――漆黒の結晶の中心にある『古傷』に触れた。
かつて【亡国を追う狩人】イゴールが、自身の心臓を完全に止めて放った『死を導く魔弾』に貫かれた場所。
あの時、レオンは確かに一度死んだ。魔王の恩寵がなければ、塵になっていたはずだ。
「……いや、違う。あの光の波長には、死に急ぐ者の悲壮感がない」
レオンは水晶球から目を離し、冷徹な殺意を漂わせた。
このままでは、愛しき真王と女王の甘美な日常に、取り返しのつかないヒビが入るかもしれない。
「――通信兵」
「はっ! 宰相閣下」
控えていた魔族の兵士が平伏する。
「直ちに、最北の教皇領へ『粛清部隊』を差し向けろ。ただのネズミではない。……そして、念のため」
レオンの双眸が、鋭く細められた。
「……第五管理区を治める【強欲】のヴァレリウスに伝令を走らせろ。教皇領付近にて、『彼が最も欲しがるであろう、極上の遺物』が発見された、とな」
数百年の静寂を破り、魔王軍が再び本気の牙を剥こうとしていた。
しかし、彼らが相対するのは、かつての悲壮な勇者たちではない。世界の法則すらも一笑に付す、傍若無人な救世主であった。
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<beens 過去作>
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