第37話:灰色の檻に落ちた光
大陸の最北端に位置する、かつての教皇領。
永遠の冬に閉ざされたその廃墟の奥深く、崩れかけた大理石の祭壇の上で、少女は血と泥に塗れながら這いずっていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
銀色の長い髪を振り乱す少女、ルナリス。
彼女の背後からは、ガチャリ、ガチャリと、無骨で重苦しい鎧の足音が迫ってきている。
「見つけたぞ、光のネズミめ。大人しく投降しろ。女王様への『上質な貢物』として、生かしたまま連れて行ってやる」
「う、あ……ッ」
ルナリスを取り囲んだのは、黒い鎧を纏った魔王軍の追っ手たちだった。
その首には、かつての人間が魔族へと成り果てた証である禍々しい刻印が刻まれている。彼らは完全に魔王の毒に染まり、慈悲という概念を失ったバケモノの下級兵士たちだ。
(もう、逃げ場はない……。皆、私を逃がすために殺されてしまった……!)
ルナリスは祭壇の縁に背を預け、震える手で自身の胸元に下げていた教皇領の秘宝――『聖光の涙』を強く握りしめた。
これを使えば、強烈な浄化の光で周囲の魔族を一掃できるかもしれない。
しかし、この世界の絶対的な法則が、それを安易に許さない。この強大な神器の起動には、『使用者の命そのもの』を代償として捧げなければならないのだ。
一度でも発動させれば、ルナリス自身が死ぬ。
「……あの方々は、私を殺さず、生け捕りにして女王への貢物にすると言っていました。……そんな辱めを受けるくらいなら!」
ルナリスは絶望の涙を浮かべながら、宝玉を天に掲げた。
もう、この世界には希望はない。神も、奇跡も、すべて魔王と女王に喰らい尽くされた。
ならばせめて、己の命を代償に、一矢報いて散るしかない。
「光の神よ! 私の命を喰らい、邪悪なる者どもに裁きを――!!」
ルナリスの生命力が、ドス黒い炎となって宝玉に吸い込まれようとした、その刹那。
世界の法則が、致命的な音を立てて「書き換わった」。
祭壇の上空を覆っていた真紅の雲が、数百年の時を経て、初めて円形にぽっかりと吹き飛んだのだ。
そして、星々を束ねたような純白の光柱が、凄まじい轟音と共に祭壇へと一直線に突き刺さった。
「――な、なんだァ!?」
魔族兵たちが目を眩ませ、悲鳴を上げる。
光が収まった祭壇の中心。
そこには、この世界の絶望も、等価交換の法則も一切知らない――Tシャツとジーンズという異質な衣服を纏った、一人の青年が立っていた。
青年――天条海人は、周囲の景色を見回し、軽く頭を掻いた。
「……雨のアスファルトでトラックに轢かれたと思ったら、本当にファンタジーな世界に来ちまうとはな。ステラって女神様も、ずいぶん無茶ぶりをするもんだ」
カイトが独り言を呟いた直後。
彼の脳内に、鈴を転がすような透明な女性の声が響いた。
『――【天啓の導き(アプレイザル・ボイス)】起動。状況を伝達します。敵対勢力、魔族下級兵5名。対象に致命的な代償を伴う神器の強制発動形跡を確認。このままでは対象の命は消滅します』
「命が消滅? おいおい、いきなりバッドエンド直前かよ」
カイトは慌てて振り返り、足元で光る宝玉を握りしめたまま、苦痛に顔を歪めているルナリスを見つけた。彼女の体からは、命の輝きが文字通り抜け落ちようとしている。
「なんだ、貴様は……! どこから現れたッ!」
魔族兵たちが剣を抜き、カイトへと殺気を向ける。
「悪いが、質問に答えてる暇はないみたいでね」
カイトは魔族兵たちを一瞥すらせず、ルナリスの側に膝をつくと、彼女が握りしめる宝玉ごと、その小さな手を両手で包み込んだ。
「え……?」
ルナリスが虚ろな目を開ける。
「大丈夫だ。君は死なない」
カイトはそう微笑むと、女神から授かった己の異能――世界の法則すら無視する、究極の傲慢にして神の奇跡を口にした。
「――【因果の改竄】」
カイトの足元に黄金の魔法陣が展開される。
次の瞬間、ルナリスの命を吸い取っていた「ドス黒い代償の鎖」がパチンと音を立てて砕け散り、宝玉からは彼女の命の代わりに、底なしの純白の魔力が溢れ出し始めた。
「命が……吸われない? それどころか、力が……溢れて……ッ!?」
ルナリスは愕然と目を見開いた。
本来なら死に至るほどの代償を払わなければ発動しない神器が、見知らぬ青年の接触によって「ノーコスト」で、しかも出力が数倍に跳ね上がって起動したのだ。
『対象の代償を完全に無効化しました。溢れた神聖魔力は、任意の形で放出可能です』
脳内の声が、無機質に、だがどこか誇らしげに告げる。
「よし。じゃあ、遠慮なく使わせてもらうぜ」
カイトは立ち上がり、溢れ出る純白の光を右手に収束させた。
「ひ、ひぃッ!? なんだその規格外の光は! 貴様、人間じゃないのかッ!?」
下級兵士たちが本能的な恐怖に顔を引きつらせ、後ずさる。
「ただの通りすがりの日本人だよ。……女の子が泣いてるのを見過ごせるほど、俺の心は強くできてないんでね」
カイトが右手を前に突き出した瞬間。
「神罰:黎明の裁定」
無音。
爆発音すらなかった。ただ、圧倒的な光の奔流が祭壇を飲み込み、五人の魔族兵は悲鳴を上げる間もなく、文字通り「光の粒」となって空間から消滅した。
数百年間、この世界を支配し続けてきた絶対的な絶望が、たった一撃で、ゴミを掃くように消し飛ばされた瞬間だった。
「…………あ、あぁ」
静寂が戻った祭壇で、ルナリスはその場にへたり込み、カイトの背中を見上げていた。
代償のない魔法。奪われない命。そして、魔王の眷属を一瞬で無に還す圧倒的な力。
彼女が幼い頃から御伽話の中でしか聞いたことのない、真なる『希望』がそこにあった。
「……代償が、ない? なぜ……どうして、あなた様は……笑っていられるのですか……?」
ルナリスの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
カイトは振り返り、呆然とする彼女に向けて、屈託のない笑顔で手を差し伸べた。
「代償? ああ、そんな理不尽なルール、俺が全部『上書き(キャンセル)』してやるよ。……立てるか、お姫様?」
灰色の檻に閉ざされた絶望の世界に、数百年ぶりの光が落ちた。
これは、かつて世界を滅ぼした「最強の魔王」たちに、すべてを覆す「最強」の青年が挑む、新たな反逆の物語の始まりであった。
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<beens 過去作>
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