エピローグあるいはプロローグ:永遠の箱庭、あるいは反逆の残光
黒曜石の玉座の間では、時間が凍りついていた。
かつて人類の希望と呼ばれた勇者たちの肉体は、漆黒の水晶に閉じ込められ、生きたまま「絶望の彫像」と化してから、すでに数百年の月日が流れていた。
外界の景色はとうに変わり果て、かつての青空は真紅の瘴気に覆い尽くされているというのに、この広間だけは何も変わらない。
彫像たちは目を見開いたまま、何百年もの間、ただひたすらに「自分たちの世界を滅ぼした魔王と女王が、永遠に愛し合い、睦み合う姿」を見せつけられ続けていた。
「んっ……ぁ……。ねぇ、アラリック」
魔王の膝の上で、女王エアラが甘い吐息を漏らす。
数百年前と何一つ変わらぬ、傾国という言葉すら生ぬるい絶世の美貌。彼女は退屈そうに彫像たちを一瞥すると、アラリックの首筋に腕を回した。
「このお人形たちも、さすがに見飽きちゃったわ。外の世界には、もう私を楽しませてくれるオモチャは残っていないの?」
「ええ。人間はとうに牙を抜かれ、貴女の美しさを保つための『血の供給源(家畜)』として、幸福な停滞に浸っておりますから」
アラリックは愛おしそうにエアラの髪を撫でながら、静かに微笑んだ。
「彼らの魂から削り出した『未練』と『絶望』……それを核として創り上げた【七天王(七大罪)】たちが、世界の要所を監視しています。もはや、この甘美な鳥籠を脅かす者など存在しません」
「そう……。なら、ずっとこうして、私だけを愛してね」
「無論です、私の女王。世界が塵に還ろうとも」
二人の狂愛の口づけが交わされる。
水晶の中の勇者たちは、声なき悲鳴を上げながら、また一つ絶望の底へと沈んでいった。
時を同じくして。
玉座の間から遠く離れた、帝都の中枢・宰相府。
「……南方の第三供給区にて、家畜の血中魔力濃度にわずかな低下が見られます。直ちに【暴食】の管轄へ通達し、劣悪な個体は飼料へと回せ」
冷徹な声で指示を飛ばすのは、帝国宰相のレオン。
彼の右半身は、禍々しい漆黒の魔力結晶で覆われていた。
(……イゴール。貴様の命を賭した一撃は、確かに私の心臓を貫いた)
レオンは、結晶化した自身の胸に触れ、数百年前の記憶を反芻する。
【亡国を追う狩人】イゴール。彼の放った『死を導く魔弾』は、完璧だった。あのままいけば、レオンは間違いなく塵となって消滅していた。
だが、魔王アラリックがそれを許さなかった。
魔王の血と女王の猛毒が無理やりレオンの体に注ぎ込まれ、イゴールが捧げた「命の対価」すらも暴力的に上書きし、彼を不死の呪縛へと繋ぎ止めたのだ。
「私をこの世に繋ぎ止めてくださった偉大なる御方のため。……この完璧な世界に、一点の汚れも許すわけにはいかない」
レオンの双眸が、鋭く細められた。
水晶球に映し出されたのは、大陸の最北端。かつて「教皇領」と呼ばれ、今では完全に廃墟と化した極寒の地だった。
「残党狩りの部隊からの定期連絡が途絶えているだと? ……小賢しい光のネズミめ。まさか、まだ『奇跡』を信じている狂人が残っているというのか」
レオンはすぐさま、上位の魔族で構成された精鋭部隊に討伐の命を下した。
どれほど足掻こうと、この世界はすでに『地獄』ですらない。盤面はとうに魔王軍によって制圧されており、チェックメイトの状態で数百年間放置されているだけなのだから。
――教皇領の廃墟、最奥の祭壇。
「はぁっ、はぁっ……!」
銀色の髪を泥と血で汚した少女、ルナリスが、崩れかけた大理石の床を這いずるように進んでいた。
彼女の背後からは、レオンが差し向けた魔族の追っ手たちの下劣な笑い声と、重い足音がひたひたと迫ってきている。
(もう、逃げ場はない……。皆、私を逃がすために殺されてしまった……!)
ルナリスは祭壇にすがりつき、胸元に下げていた教皇領の秘宝――『聖光の涙』を強く握りしめた。
これを使えば、周囲の魔族を浄化できるかもしれない。
しかし、その代償は『使用者の命そのもの』。一度でも発動させれば、ルナリス自身が死ぬ。それが、この世界の絶対的な法則(神器による等価交換)だった。
「……私を殺さず、生け捕りにして女王への貢物にすると言っていました。……そんな辱めを受けるくらいなら!」
ルナリスは祭壇に自身の血を広げ、かつて初代聖女が遺したとされる、次元の壁を穿つ『禁忌の召喚陣』を描き始めた。
もう、この世界には希望はない。
神も、奇跡も、すべて魔王と女王に喰らい尽くされた。
ならば、この法則の外側――別の世界から、因果を断ち切る光を喚ぶしかない。
「見つけたぞ、教皇領の小娘!!」
祭壇の扉が蹴破られ、漆黒の鎧を着た魔族兵たちが雪崩れ込んでくる。
ルナリスは絶望の涙を浮かべながら、宝玉を天に掲げた。
己の命を代償に、最後の奇跡を紡ぐために。
「光の神よ! 私の命を喰らい、どうか、どうかこの世界を救う『光』を――!!」
ルナリスの命が燃え尽きようとした、その刹那。
世界の法則が、致命的な音を立てて「書き換わる」。
祭壇の上空を覆っていた真紅の雲が、数百年の時を経て、初めて円形にぽっかりと吹き飛んだ。
そして、星々を束ねたような純白の光柱が、凄まじい轟音と共に祭壇へと突き刺さったのだった。
「――な、なんだァ!?」
魔族兵たちが目を眩ませ、悲鳴を上げる。
光が収まった祭壇の中心。
ルナリスの命を奪うはずだった宝玉の代償は完全に消失し、ただ静かな温もりだけが残っていた。
そして、そこに立っていたのは。
この世界の絶望も、法則も、魔王の恐ろしさも一切知らない――Tシャツとジーンズ姿の、一人の「現代の青年」だった。
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