第35話:狂信の天使、あるいは神が地に堕ちる音
「ジーク、フリート……ッ!」
壁に叩きつけられ、ピクリとも動かなくなったリーダーの姿に、獣人バルダスは絶望の叫びを上げた。
命と記憶をすべて注ぎ込んだ絶対の一撃。それが、魔王アラリックの『指一本』で文字通り粉砕されたのだ。
圧倒的すぎる力量差。戦いと呼ぶことすらおこがましい、ただの「羽虫の駆除」だった。
「ひ、ひぃ……ッ。いやだ、いやだァッ……」
魔術師リディアが、全身の皮膚を失った痛々しい腕で頭を抱え、床に蹲った。
盲目のクラウディアも、両目から血の涙を流したまま、ただガタガタと震えている。
もはや、勇者パーティに戦意は残っていなかった。
玉座から立ち上がったアラリックの巨大な影が、彼らの心を完全にへし折っていたのだ。
「……あはははっ! ねぇアラリック、この子たち、もう壊れちゃったみたい! つまらなーい!」
玉座の上で足を組み、退屈そうに頬杖をつく女王エアラ。彼女の美しい顔には、無慈悲な冷笑が張り付いている。
その時だった。
「――まだだ! まだ、光は……神の光は、死んでいませんッ!!」
絶望の底に沈む大広間に、高く澄んだ少年の声が響いた。
【器の少年】エルだった。
彼はボロボロになった仲間たちの前に進み出ると、両手を胸の前で固く組み、天に向かって祈りを捧げ始めた。
「おお、光の神よ! 今こそ僕の内に眠る『神の欠片』を解放し、この忌まわしき闇を……ッ!!」
エルの全身から、目も眩むような純白の光が溢れ出す。
それは、地下の泉で幻影を打ち払った時よりも遥かに強烈な、正真正銘の『神の奇跡』の顕現だった。
「エル……ッ! お前……!」
バルダスが、一縷の希望を込めてその光を見つめた。
彼こそが、教皇が創り出した最終兵器。神の力を直接地上に降ろすことのできる、文字通りの『器』。
「いけぇぇッ! エルゥゥッ!!」
リディアが血を吐きながら叫んだ。
純白の光が激しい奔流となり、玉座に立つ魔王と女王へ向かって一直線に放たれた。
今度こそ、あらゆる邪悪を浄化する神の鉄槌が下る――。
誰もがそう信じた、次の瞬間。
「――んっ。あら、なんだか懐かしい温かさね」
玉座の上のエアラが、飛来する純白の光の奔流に向けて、スッと右手をかざした。
ズオォォォォォンッ……!!!
大広間を揺るがす轟音。
しかし、光の奔流はエアラに触れた瞬間、浄化の力を完全に失い、まるで親鳥の胸に飛び込む雛鳥のように、彼女の掌の中に吸い込まれ、優しく溶けていったのだ。
「え……?」
祈りのポーズをとっていたエルの顔が、愕然と固まった。
彼の放った神の力が、何一つ通用しなかったからではない。
エルの中にある『神の欠片』が。
エアラの内に秘められた「かつて世界中を癒やした元・聖女の神性」と、アラリックから注ぎ込まれ続けた「圧倒的な魔王のオーラ」の混ざり合った、その『究極の神々しさ』に、強烈に惹かれ、共鳴してしまったのだ。
「あ……。あ、あぁ……」
エルの瞳孔が、極限まで見開かれた。
彼の視界には、もはや魔王も世界も映っていない。
ただ玉座で微笑むエアラの姿だけが、後光が射すような『真なる神』として、彼の脳髄に焼き付いていた。
「なんという……なんという、美しさ……。ああ、あの方こそが……僕が仕えるべき、真の光……!!」
「エル!? お前、何を言ってるんだ!?」
バルダスが危険を察知し、声を上げた。
しかし、遅かった。
エルの純白の魔力が、突如としてドス黒い瘴気へと反転したのだ。
「ギ、ギィィィヤァァァァァッ!!」
エルの背中の肉が凄惨な音を立てて裂け、そこから巨大な漆黒の翼が四枚、六枚と飛び出した。
少年の顔の半分は醜悪なバケモノのように歪み、頭上にはドクロのような不気味な光の輪が浮かび上がる。
『神の器』が、エアラの毒気に中てられ、完全に狂信的な『堕天使』へと変貌を遂げた瞬間だった。
「神よ……! 偉大なる真の神(エアラ様)よ! あなたの御前を汚すこの薄汚いゴミ屑どもは、僕がすべて排除いたします!!」
狂乱したエルが振り返り、あろうことか、味方であるバルダスたちにその手を向けた。
「な……ッ! ふざけるな、エル! 正気に戻れェッ!!」
「神の敵対者め! 消えろォォォッ!!」
エルから放たれたドス黒い『神罰』の雷が、バルダスを直撃する。
「ガァァァァァッ!!」
痛覚が百倍になったバルダスの肉体が、神の雷によって内側から焼き焦がされ、この世のものとは思えない絶叫を上げて床を転げ回った。
「バルダス! いや、やめてエル! 私たちよ!?」
リディアが必死に叫ぶが、狂信に染まったエルにはもう、かつての仲間の声など届かない。
「アハハハハハッ! あの方の美しさが分からないお前たちは、生きてる価値もない肉塊だァァッ!」
エルは泣きながら笑い、次々と味方に死の魔法を乱れ撃ちし始めた。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
守るべき恩人を自らの手で殺し、最後は味方の最終兵器に裏切られ、焼き殺されていく。
勇者たちの誇りも、希望も、すべてが泥にまみれて崩壊していった。
「あははははっ! ねぇ見てアラリック! 面白すぎるわこれ!」
玉座の上。
エアラはアラリックの腕の中で、腹を抱え、涙を流して大爆笑していた。
「自分で作ったオモチャに殺されてるの! 神様も随分とドジなのね! あはははっ、あはははははッ!!」
エアラは狂ったように笑い転げ、アラリックの胸に顔を埋めて肩を震わせている。
「……ええ。彼らにとっては、極上の絶望でしょう」
アラリックもまた、醜く同士討ちをする勇者たちを冷酷に見下ろし、唇を歪めていた。
「神すらも貴女の魅力にひれ伏す。当然のことです。この世界に、貴女以上に美しく、尊い存在などいないのだから」
アラリックはエアラの顎を指ですくい上げ、その血に濡れた唇に、深く熱いキスを落とした。
玉座の間には、狂った堕天使の笑い声と、焼き殺されていく勇者たちの悲鳴。
そして、世界を滅ぼした魔王と女王の、ひどく甘く、退廃的なキスの水音だけが、永遠に響き続けていた。
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