第34話:指先の絶望、あるいは神殺しの喜劇
地下の隠し通路を抜け、分厚い黒曜石の扉を押し開けた先。
そこは、地獄のような外の世界や血塗られた回廊とは完全に切り離された、異様なまでに甘く、そして静謐な空間だった。
「……ハァッ、ハァッ……。ここが、玉座の間……」
恩人たちの返り血と泥に塗れ、満身創痍となったジークフリートが、虚ろな目で前を見据える。
背後には、全身の皮膚をさらに失い血まみれになったリディアと、痛覚の限界で痙攣するバルダス、そして白杖を握りしめて震えるクラウディアとエルが続いていた。
大広間の最奥。真紅の絨毯の先に鎮座する、巨大な骨と黄金で装飾された玉座。
そこに、彼らが命を懸けて討つべき『世界の敵』がいた。
「――あら。随分と遅かったじゃない、勇者くんたち」
玉座の上。
巨大な魔王アラリックの膝の上に横たわり、彼に愛おしそうに髪を梳かれていた女王エアラが、退屈そうに唇を尖らせた。
「地下のネズミたちとのダンス、楽しかった? 私が特別に配合してあげた『血のスープ』の味はどうだったかしら?」
「……ッ、きさまァッ!!」
エアラの無邪気で残酷な嘲笑に、獣人バルダスが怒りで牙を砕かんばかりに噛み締めた。
「お前ら……お前らのせいで、どれだけの人間が……! どれだけの命がッ!!」
勇者たちの悲痛な叫びが広間に響き渡る。
しかし、玉座の上の二人は、怒り狂う勇者たちを「うるさい羽虫」でも見るかのように冷たく見下ろした。
「……エアラ。少し、ハエどもの羽音が騒がしいですね。貴女の美しい鼓膜を傷つけるといけない」
アラリックはエアラの耳元に優しくキスを落とすと、初めてその禍々しい真紅の瞳をジークフリートたちへと向けた。
その瞬間。
空間そのものが「ミシミシ」と悲鳴を上げた。
「な……ッ、が、あぁ……ッ!?」
盲目のクラウディアが、両目から血の涙を流してその場に崩れ落ちた。彼女の『神の千里眼』は、アラリックから放たれる圧倒的な魔力の密度を直視してしまい、脳の処理限界を超えてしまったのだ。
バルダスも、リディアも、ただアラリックに「見られた」だけで、全身の骨が軋み、立っていることすらできずに膝をつく。
これが、真の魔王。
這い上がることすら許されない、絶対的な『死の概念』そのもの。
「……あ、あぁ……ァァアアアッ!!」
その絶対的な絶望圧の中、ただ一人、ジークフリートだけが立ち上がった。
もはや彼には、自分が誰のために怒っているのか、誰の復讐のためにここにいるのか、その理由(記憶)すらない。
ただ、目の前の存在を殺さなければならないという『空っぽの殺意』だけが、彼を動かしていた。
「おおおおおおおッ!!」
ジークフリートは『魂喰いの聖剣』を上段に構え、残された自らの記憶、自我、そして生命力のすべてを刀身に注ぎ込んだ。
神の奇跡が極限まで圧縮され、聖剣が目も眩むような白銀の光を放つ。
それは間違いなく、人類史上最高の『神殺しの一撃』だった。
音を置き去りにした神速の踏み込み。ジークフリートの体が流星と化し、玉座に座るアラリックの首筋へと一直線に襲いかかる。
「死ねェェェェェェッ!! 魔王ォォォォッ!!」
空間を切り裂き、すべてを浄化するはずの白銀の刃が、アラリックの喉元に迫る。
あと一寸。あと一ミリで、魔王の首を撥ね飛ばせる。
勇者たちの目に、一瞬の希望が灯った。
――しかし。
カキィィンッ。
小石がガラスに当たったような、ひどく間の抜けた、軽くて乾いた音が響いた。
「……え?」
ジークフリートは、空中で完全に動きを止めた自身の剣を見て、呆然と声を漏らした。
彼の全身全霊の、命と記憶を燃やし尽くした『神殺しの一撃』。
それは、アラリックの首に届くどころか――。
玉座に座り、左腕でエアラの腰を抱き寄せたままのアラリックが。
ただ無造作に持ち上げた、『右手のひとさし指』の爪先によって、完全に止められていたのだ。
「……嘘、だろ」
剣身がガタガタと震えている。聖剣はさらに持ち主の魂を喰らい、光を増そうと足掻くが、アラリックの指先から放たれる漆黒の魔力の前に、ピクリとも前に進むことができない。
「これが、神の奇跡の全力ですか。……随分と、軽いな」
アラリックが、ひどく退屈そうにため息をついた。
彼は愛する女王を抱いたまま、立ち上がることも、武器を抜くこともなく、ただ指一本で「人類の希望」を真正面から受け止めていた。
「こんなそよ風では、私の女王の髪を揺らすことすらできませんよ」
ピキッ。
アラリックが、そのひとさし指で聖剣の刀身を軽く『弾いた』。
パァァァァンッ!!
「が、はァッ……!!?」
たったそれだけの動作。
しかし、ジークフリートの腕の骨が両方とも砕け散り、『魂喰いの聖剣』が中腹から真っ二つにへし折れた。
激しい衝撃波と共に、ジークフリートの体は紙屑のように吹き飛び、大広間の分厚い壁に激突して血の雨を降らせた。
「ジークフリートォォッ!!」
バルダスたちが絶叫する。
「あはははははっ! すごい、すごいわアラリック! ゴミみたいに飛んでいったわ!」
玉座の上で、エアラが手を叩いて無邪気に笑い転げる。
彼女にとって、人類の命を懸けた最終決戦は、ただの「面白いショー」でしかなかった。
壁際に崩れ落ち、ピクピクと痙攣するジークフリート。折れた聖剣は光を失い、ただの鉄屑となって転がっている。
「……さて。前座は終わりです」
アラリックが、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
その巨大な影が、床を這いつくばる残りの勇者たちを完全に飲み込む。
「貴様らには、我々の愛の園を汚した罪をたっぷりと償ってもらいましょう。……決して死ねない『永遠の苦痛』という形で」
真の地獄の蓋が、今、完全に開かれたのだった。
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<beens 過去作>
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