第26話:静謐なる終末の朝
あれから、数年の月日が流れた。
かつて「光の季節」と呼ばれた大陸の暦は、今や「魔王暦」へと書き換えられている。大陸の六割は、魔王アラリックと女王エアラが放つ漆黒の瘴気に飲み込まれ、地図の上から「国家」という概念は消滅した。
そこにあるのは、管理され、飼い慣らされた、静謐な地獄だ。
「……本日も、供給は安定しております」
かつての交易都市、現在は『第三・血肉供給区』と呼ばれる街の広場で、一人の男が淡々と報告を行っていた。
男の首には、家畜の証である「等級刻印」が赤黒く浮かび上がっている。広場に集まった数百人の人間たちは、みな痩せ細り、虚ろな瞳で空を見上げていた。
彼らにとっての空は、もう何年も青くない。どんよりとした真紅の雲が、絶えず血のような霧を降らせている。
「等級一から三の者は、本日夕刻、大聖堂への『貢物』として移送される。誇りに思うがいい。君たちの血が、至高なる女王様の美しさを保つ糧となるのだから」
管理者である魔族――かつて十字軍の将校だった異形の怪物――が、耳まで裂けた口で笑う。
人間たちは反抗しない。逃げようともしない。
数年に及ぶエアラの「反転した加護」による洗脳と、逆らえば一瞬で肉塊に変えられる暴力の前に、彼らの精神は完全に去勢されていた。
「あはは……。女王様、今日も笑ってくれるかな」
「僕の血、美味しいって思ってくれるかな……」
壊れた機械のように呟く人間たち。
飢えも病もない。ただ、定期的に「収穫」されるのを待つだけの、平和で絶望的な家畜の檻。
それが、アラリックとエアラが作り上げた新世界の姿だった。
一方、大陸の最北端。まだ辛うじて「光」が残る教皇領の地下深く。
そこでは、世界の命運を賭けた、最後にして唯一の「賭け」が始まろうとしていた。
「――揃ったか。死を恐れぬ、神に見捨てられた六人が」
教皇の声が、冷たい石造りの間に響く。
そこには、かつての栄光を失い、復讐と怨嗟に身を焼かれた六人の男女が立っていた。
西の帝国の生き残りジークフリート、盲目の聖公女クラウディア……。
彼らは皆、何らかの「欠損」を抱えている。それは神の神器を扱うために支払わされた、非道な代償の痕跡だった。
「勇者などという甘っちょろい名は不要だ。貴殿らは、あの二人の化物を屠るための『凶器』である」
教皇が差し出した六つの神器が、不気味な光を放つ。
それは人類の希望というよりも、最後の悪あがきに似た、悲壮な輝きだった。
同じ頃。
王都グランディール、大聖堂の最奥。
外の世界で十万の軍勢が消滅しようが、新たな「凶器」が産声を上げようが、この場所だけは永遠に変わらない、停滞した甘い時間が流れていた。
「……んっ、はぁ。アラリック……今日の血は、少し苦い気がするわ」
天蓋ベッドの上。漆黒の髪を乱したエアラが、首筋に牙を立てるアラリックの頭を優しく撫でながら、不満げに唇を尖らせた。
彼女の肌は、数年前よりも透き通り、人間離れした神々しい美しさを放っている。
「申し訳ありません、エアラ。供給区の人間どもが、少しばかり『絶望』に慣れすぎてしまったようです。……もう少し、恐怖を煽って鮮度を上げるようレオンに命じましょう」
アラリックが牙を引き抜き、血に濡れた口元を歪めて笑う。
彼の肉体もまた、吸い上げた膨大な血と魔力によって、もはや生物としての限界を超えた、神に近き「悪」の完成体へと至っていた。
アラリックは傍らに置かれた水晶球を一瞥する。
そこには、教皇領で密議を凝らす六人の勇者候補たちの姿が映し出されていた。
「……また、新しいおもちゃが届くようですよ。今度こそ、貴女を退屈させない連中だと良いのですが」
「あら、嬉しいわ。前の『聖騎士団』は、一晩も持たずに壊れてしまったもの」
エアラはクスクスと鈴を転がすような声で笑うと、アラリックの首に腕を回し、その耳元で熱く囁いた。
「ねえ、アラリック。今度の勇者たちも……。あなたのその爪で、私の前で一匹ずつ丁寧にバラバラにして見せてちょうだい。その返り血を浴びながら、あなたと愛し合いたいの……」
「御意のままに、私の女王。貴女の至福のためならば、神の奇跡すらも塵に変えてご覧にいれましょう」
二人の影が、再び重なる。
十万の魔軍を従え、大陸の半分を家畜に変えてなお、彼らの渇きは癒えることを知らない。
世界が悲鳴を上げ、最後の希望が燃え尽きようとする中、魔王と女王の終わらない蜜月は、より深く、より残酷な深淵へと堕ちていくのだった。
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<beens 過去作>
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