第23話:紅蓮の杯、あるいは永遠を誓う堕ちた白雪
下界の凄惨な殺戮劇が終わってから数分後。
大聖堂の最上階、分厚い扉が静かに開かれ、濃密な血の匂いを纏った巨躯が寝室へと足を踏み入れた。
「……ただいま戻りました。随分と、騒がしくしてしまいましたね」
アラリックは、純白のシャツにべったりとこびりついた恩師の返り血を鬱陶しそうに払いながら、ベッドの傍らに立つひとつの影を見つめた。
バルコニーから戻ってきたばかりのエアラは、ガタガタと微かに肩を震わせていた。
恐怖ではない。眼下で繰り広げられた、かつて自分たちを縛り付けていた「絶対的な正義(光)」が、自分の飼い犬の圧倒的な暴力によって無惨に蹂躙される光景。
その理不尽なまでの『力の差』を前に、彼女の胎の奥は、これまでにないほど激しく、甘く疼いていたのだ。
「……アラリック」
エアラはふらつく足取りで彼に近づくと、血に塗れた巨大な手を取り、自らの柔らかな頬へと押し当てた。
「エアラ? いけません、血で汚れてしまう。すぐに洗い落として――」
「いいの。……ああ、なんて熱くて、恐ろしい手なの」
エアラは陶酔しきった瞳で、アラリックの顔を見上げた。
恩師を惨殺したばかりの彼の瞳には、まだ禍々しい真紅の殺意が燻っている。人間であれば直視しただけで発狂しかねないその眼光に、彼女は吸い込まれるように見入っていた。
「ねえ、アラリック。私、気づいてしまったの」
「……何にですか?」
「私はただの人間よ。いくら奇跡の代償をあなたに吸い出してもらっても、いずれは老いて、醜くなって、そして死んでしまう。……脆くて、薄っぺらなガラス細工」
エアラは自身の真っ白な首筋――彼が幾度も牙を立て、キスマークと噛み跡で赤黒く爛れたその場所を、自らの爪でなぞった。
「私が死んだら、あなたはどうするの? 私の血なしで、あなたのその底なしの渇きは、一体誰が満たしてくれるの?」
「……そんなこと、考えたくもありません。もし貴女が死ぬのなら、私はこの世界をすべて燃やし尽くして、貴女の魂を地獄の底から引きずり戻すだけです」
一切の迷いなく放たれた、狂気と愛が入り混じった言葉。
その圧倒的な執着に触れ、エアラの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ふふっ……本当に、どうしようもない駄犬ね」
エアラは背伸びをし、彼の裂けたような恐ろしい口元に、そっと自らの唇を重ねた。
鉄錆の味。魔王の毒。そして、抗いがたい熱。
「……私を、ただの人間で終わらせないで」
唇を離したエアラは、懇願するようにアラリックの胸ぐらを掴んだ。
「私を、あなたと同じ『化物』にして。私の血も、肉も、魂も……全部あなたの毒で作り変えて。永遠に、あなたのその渇きを満たし続けるための『器』にしてちょうだい!」
それは、光の神に仕える聖女が、自ら悪魔との契約を望むという、究極の冒涜であり堕落だった。
しかし、アラリックにとって、それ以上の至福の言葉は存在しなかった。
「……本気ですか。神の愛を捨て、魔の眷属に堕ちるということは、二度と太陽の下を歩けなくなるということです。それに、全身の血が沸騰し、魂が作り変えられる激痛は、人間には耐え難い」
「馬鹿にしないで。私が誰だと思っているの? ……私は、魔王を飼い慣らす唯一の女よ。その程度の痛み、あなたが私に与えてきた『悦び』に比べれば、何でもないわ」
傲慢に、不敵に笑う彼女の美しさに、アラリックの理性の糸が完全に焼き切れた。
「ハァッ……! ええ、そうです。貴女は私の、たった一人の……ッ!!」
アラリックは自身の腕に鋭い爪を突き立て、真黒な魔力が渦巻く『魔王の血』を滲ませた。
そして、その血が滴る腕を、エアラの口元へと押し当てる。
「さあ、飲み干してください。私の毒を、貴女の隅々にまで行き渡らせて」
「んっ……、あ……っ!」
エアラは小さな口を開き、彼の傷口から溢れ出す熱い血を、貪るように啜り始めた。
ゴクン、ゴクンと、喉を鳴らして飲み下す。
直後。
「あ……がぁッ!? ぁ、あああああああァァッ!!」
エアラの全身が、見えない炎に包まれたように激しく痙攣した。
彼女の体内に残っていた微かな『光の加護』が、侵入してきた圧倒的な『魔の瘴気』と激突し、細胞の奥底から肉体を破壊し、そして再構築していく。
背中が裂けそうに痛み、心臓が破裂するような激痛。
「痛い……っ! アラ、リック……! 体が、燃えちゃう……っ!」
「耐えてください。今、私が……貴女を新しい世界へ導く」
アラリックは狂乱して暴れる彼女を強く抱きしめ、そのうなじへと深く、深く牙を突き立てた。
彼が彼女の古い人間の血を吸い出し、同時に、噛み跡から自身の魔力を直接注ぎ込んでいく。
破壊と再生。苦痛と快楽。
二つの相反する感覚が、エアラの脳髄を真っ白に染め上げた。
「あ、あぁぁ……っ、ん、あぁッ……!!」
やがて、彼女の絶叫は、聞いたこともないほど甘く、淫らな嬌声へと変わっていった。
純白だった彼女の髪の毛の先が、夜の闇を溶かしたような漆黒へと染まっていく。
そして、血に塗れた唇の隙間からは、アラリックと同じ、鋭く美しい二本の『牙』が覗いていた。
光は完全に死に絶えた。
王都の最も高い場所で、永遠の命と、終わらない渇きを共有する『魔王と真紅の女王』が、ここに誕生したのだった。
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<beens 過去作>
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