第1話:渇きの発作と最初の聖餐
王都への帰還を遅らせ、討伐隊が休息を取るために立ち寄った寂れた宿場町。
その外れにある小さな廃教会の地下室で、アラリックは冷たい石柱に自らを太い鉄の鎖で縛り付けていた。
「が、ぁ……あ、あああああッ!」
湿った地下室に、獣のような咆哮が響く。
魔獣の血を浴びたあの日から三日。彼の肉体は、完全に「人間」の枠を外れようとしていた。
全身の血管が皮膚の下で黒く浮き上がり、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。体温は沸騰するほどに高く、吐き出す息は周囲の空気を歪ませるほど熱い。
(渇く……。喉が、焼ける……!)
彼を苛んでいるのは、傷の痛みではない。
脳の髄まで焦がすような、圧倒的な「飢え」と「渇き」だった。
ただの水ではだめだ。宿で出された肉を噛みちぎってみても、砂を噛んでいるようで吐き出してしまった。
彼の中に巣食う怪物は、もっと濃密で、熱く、命そのものが詰まった『何か』を求めて泣き叫んでいる。
「……殺してくれ。私が……化物に成り果てる、前に……」
血まみれの唇から漏れたのは、騎士としての最後の矜持だった。
自身の手で首を掻き切ろうにも、鎖がそれを許さない。彼は自らの意志でこの地下室に籠もり、部下たちに「何があっても近づくな」と厳命していたのだ。
だが。
ギィ、と重い木の扉が開く音がした。
階段の上から、微かなランプの灯りと共に、静かな足音が降りてくる。
「……誰だ、来るなと言ったはずだ……ッ!」
威嚇するように睨みつけたアラリックの右目は、暗闇の中で呪わしい真紅の光を放っていた。
しかし、その足音の主は歩みを止めない。
暗がりから現れたのは、純白の修道服に身を包んだ聖女、エアラだった。
「アラリック様。そんな冷たい床で、独りで苦しんでいるなんて」
「エアラ……? なぜ、ここに……逃げろ! 今の私は、君を……」
アラリックの言葉は、最後まで続かなかった。
彼女が近づくにつれ、鼻腔を強烈に打つ『匂い』があったからだ。
甘く、芳醇で、それでいて頭の芯が痺れるような、圧倒的な生命の匂い。
彼女の細い首筋の奥でトクン、トクンと脈打つ血液の音が、まるで耳元で囁かれているかのように鮮明に聞こえる。
(食べたい。ああ、狂おしいほどに、彼女を――)
ガチャン!!
アラリックは無意識のうちに鎖を引きちぎらんばかりに暴れ、石柱にひびを走らせた。
口からは涎が垂れ、犬歯は人間にはあり得ないほど鋭く尖り始めている。もはや完全に、獲物を前にした飢えた獣の姿だった。
しかし、エアラは悲鳴を上げることも、怯えることもなかった。
彼女はランプを床に置くと、泥と汗に塗れたアラリックの目の前に膝をついた。
「私の誇り高き騎士様。あなたが私を守るために受けた呪いなら、私が癒やすのが道理です」
彼女はそう言うと、自らの修道服の襟元に手をかけ、ゆっくりと引き下げた。
あらわになったのは、透き通るように白く、無防備な首筋。
「いいえ、祈りでは足りませんね。今のあなたが本当に欲しているのは、これでしょう?」
彼女の細い指先が、自身の脈打つ頸動脈をそっとなぞる。
その瞬間、アラリックの理性を繋ぎ止めていた最後の糸が、音を立てて千切れた。
「あ……が、ぁぁ……ッ!!」
拘束されていたはずの腕が、異常な力で鎖の留め具を粉砕した。
彼は弾かれたようにエアラに飛びかかり、その細い体を冷たい石の床へと押し倒した。
重い体格差。本来なら恐怖で顔を歪めるはずの状況で、エアラはただ優しく、アラリックの乱れた髪に指を絡ませた。
「さあ、遠慮はいりません。私を、召し上がれ」
慈愛に満ちた、しかしどこか甘く粘り気のある囁き。
アラリックは抗えなかった。
彼は、震える唇を彼女の首筋に押し当て、その柔らかな肉に、鋭く伸びた牙を突き立てた。
「――っ、……あ、はぁ……」
エアラの口から、小さな、しかし熱を帯びた吐息が漏れる。
アラリックの口内に、温かく、濃密な液体が流れ込んできた。
(ああ……! あああああッ……!!)
それは、彼がこれまで味わったどんな美酒よりも甘く、どんな麻薬よりも強烈だった。
喉を通る一滴一滴が、干からびた細胞に爆発的な熱と生命力を与えていく。
脳が白く染まるほどの多幸感が全身を駆け巡り、アラリックは夢中で彼女の血を啜った。痛むはずの肉体の崩壊すら、今は至上の快楽にしか感じられない。
彼が背徳の蜜を貪る間、エアラは彼を抱きしめたまま、誰にも見えない暗闇の中で、そっと唇を吊り上げた。
(そうよ、もっと飲んで。私が溜め込んだ穢れ(毒)を、残らず飲み干して頂戴)
彼女の瞳に浮かんでいたのは、自己犠牲の慈愛などではない。
自分の代わりに汚れを引き受けてくれる「美しいゴミ受け」を手に入れた、支配者としての冷酷で淫らな歓喜だった。
神聖なる地下室で交わされる、最もおぞましく、最も甘美な『最初の聖餐』。
この夜を境に、アラリックは二度と人間の世界へは戻れなくなった。
彼を繋ぐ鎖は、もはや鉄ではない。彼女の血という、決して逃れられない「蜜の枷」へと変わったのだ。
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