プロローグ:甘い腐敗の始まり
夜の森を叩きつけるような豪雨が、視界を白く染め上げていた。
むせ返るような泥の匂いと、焼け焦げた獣の体臭。そして、むき出しになった内臓から立ち上る、むっとするような鉄錆の臭気。
「……はぁっ、はぁ……っ!」
銀の甲冑に身を包んだ騎士アラリックは、泥土に膝をつき、荒い息を吐き出していた。
彼の足元には、つい先ほどまで彼ら討伐隊を苦しめていた「人喰いの魔獣」の巨体が、首を半分切断された状態で転がっている。彼が振るった大剣の一撃が、かろうじて怪物の息の根を止めたのだ。
しかし、代償は大きかった。
致命傷を与えた瞬間、怪物の頸動脈から噴き出した漆黒の返り血を、アラリックはまともに浴びてしまったのだ。
兜の隙間から入り込んだその血は、彼の右目と、そして唇の隙間から、舌の上へと落ちた。
「ぐ、あ……っ!?」
直後、アラリックは自身の喉を掻きむしり、泥濘の中に転げ回った。
熱い。熱すぎる。
飲み込んでしまった一滴の黒い血が、まるで煮えたぎる鉛のように食道を引き裂き、胃の腑へと落ちていくのがわかった。
血管の中を、目に見えない無数の「何か」が這いずり回るような、おぞましい感覚。全身の骨が軋みを上げ、皮膚の下で筋肉が勝手に脈動を始める。
(なんだ、これは……! 毒か……いや、違う!)
痛みにのたうち回るアラリックの脳髄を、さらに異様な感覚が襲った。
嗅覚が、異常なほどに鋭敏になっている。
先ほどまで悪臭だと感じていた怪物の死臭が、なぜか甘く、芳醇なスパイスのように鼻腔をくすぐり始めたのだ。さらには、周囲で倒れている部下たちの傷口から流れる血の匂いが、たまらなく「美味しそう」に感じられる。
「あ……が、ぁ……」
胃液を吐き出そうと口を押さえるが、漏れ出るのは獣のような低い唸り声だけだった。
思考がドロドロに溶けていく。
人間の理性が、根源的な「飢え」によって塗り潰されていく。
「アラリック様! アラリック様、しっかりしてください!」
不意に、降りしきる雨音を切り裂いて、鈴を転がすような清らかな声が響いた。
討伐隊の後方で護衛されていたはずの「光の聖女」エアラが、泥に純白のドレスを汚すことも厭わず、彼のもとへ駆け寄ってきたのだ。
「来るな……ッ! 逃げろ、エアラ!」
アラリックは振り絞るような声で叫んだ。
しかし、彼女は立ち止まらない。それどころか、苦悶するアラリックの頭を、その細く柔らかな腕で抱き寄せた。
「無茶をなさいましたね。さあ、私の祈りで、その痛みを和らげましょう」
彼女の白磁のような指先が、アラリックの熱を帯びた頬に触れる。
その瞬間だった。
アラリックの体内で暴れ回っていた「熱」が、一気に下腹部から脳天へと駆け抜けたのは。
(ああ……、なんて、いい匂いなんだ……)
至近距離から漂う、エアラの体温。
雨に濡れた彼女のうなじから立ち上る、若く、清らかな生命の匂い。
薄い皮膚の下で、トクン、トクンと規則正しく脈打つ頸動脈の音が、まるで彼を誘う甘い音楽のように耳元で反響する。
触れたい。
その白い肌をこの爪で引き裂き、温かい中身を啜り上げたい。
己の命に代えても守ると誓ったはずの聖女を前にして、アラリックの心に浮かんだのは、騎士としての忠誠心ではなく、どす黒く淫らな「捕食」の衝動だった。
「アラリック様……? どうかされましたか、息が、ひどく荒い……」
心配そうに見つめてくるエアラの瞳に、アラリックは自身の顔が映っているのを見た。
泥と血に塗れたその顔は、右目だけが異常な真紅に発光し、唇からは一筋の涎が垂れている。
それはもう、誇り高き騎士の顔ではなかった。
(私は……狂ってしまったのか)
アラリックは、自分の中から理性が崩れ落ちる音を聞いた。
自身の太ももにナイフを突き立て、その強烈な痛みでかろうじて正気を繋ぎ止める。
だが、彼はまだ知らない。
この夜の出来事が、彼が人間としての尊厳をすべて失い、彼女の与える「甘い毒」なしでは生きられない惨めな獣へと成り果てる、地獄の始まりに過ぎないことを。
そして、彼を優しく抱きしめるこの聖女こそが、世界で最も恐ろしい存在であるということを。
雨は、二人の狂気を祝福するように、ただ静かに降り続いていた。
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