第15話:砕け散る鳥籠、あるいは魔王の帰還
深夜二時。大聖堂の最上階にある聖女の自室は、死んだような静寂に包まれていた。
「……遅い。遅すぎるわ、あの駄犬」
エアラは豪奢な寝台の上で、苛立たしげに爪を噛んでいた。
北からの連絡が途絶えて一ヶ月。彼女の体内に溜まる『業』の熱は、すでに限界を超えていた。全身が火傷のように熱く、血管の中をドロドロとした鉛が流れているような不快感。
今すぐにでも、あの狂った騎士の牙で、この熱を乱暴に吸い出してほしかった。
その時。
ミシィッ……!
部屋全体を覆う、不可視の「多重結界」が、悲鳴のような軋みを上げた。
「な……っ!?」
エアラが弾かれたように身を起こす。
これは教皇クラスの魔術師でさえ突破不可能な、絶対防御の結界だ。それが、外部からの「たった一撃」の物理的な圧力で、ガラス細工のようにヒビ割れようとしている。
パリィィィィンッ!!
次の瞬間、轟音と共に結界が砕け散り、部屋の巨大な窓ガラスが内側に向かって爆散した。
吹き込む猛吹雪と、ガラスの破片。
その白い混沌の中から、銀色の法衣を纏った巨影が、寝室の中央へと音もなく着地した。
「……誰よ。私の聖域を汚す不届き者は」
エアラはとっさに短剣を構え、気丈に声を張り上げた。
だが、その声は微かに震えていた。
侵入者から放たれる気配――それは、これまで彼女が出会ったどんな高位の聖職者や、凶悪な魔獣とも異なる。生物としての格が違う、圧倒的な『捕食者』のオーラだった。
「……ただいま戻りました。私の、愛しい飼い主様」
侵入者がゆっくりと顔を上げた。
フードの下から覗く、銀の仮面。そのスリットの奥でギラギラと燃え盛る、禍々しい真紅の双眸。
そして、仮面の下から漏れ出る、獣の唸り声のような重低音。
「ア、アラリック……?」
エアラは息を呑んだ。
帰ってきた。待ちわびていた、自分の騎士が。
しかし、何かが決定的に違っていた。かつての彼にあった、忠犬のような従順さや、騎士としての理性的な輝きは微塵もない。
そこにいるのは、飢えと殺意、そして歪んだ執着だけで構成された『魔王』そのものだった。
「……遅かったわね。どれだけ私を待たせれば気が済むの」
エアラは努めて冷静を装い、いつもの支配者としての態度で彼を見下ろそうとした。
「罰として、今すぐそこへ跪きなさい。そして、私の靴をお舐め――」
ドンッ!!
エアラの言葉は最後まで続かなかった。
瞬きする間もない速度で距離を詰めたアラリックが、彼女の細い体を寝台へと乱暴に押し倒したのだ。
「きゃっ……!? な、何を……離しなさい、アラリック! これは命令よ!」
エアラが短剣を突き立てようとするが、アラリックの鋼鉄のような手首に容易く掴まれ、ねじり上げられた。
カラン、と短剣が床に落ちる。
「命令……? ハッ、面白い冗談だ」
アラリックが仮面を外した。
露わになった素顔は、口が耳まで裂け、サメのような牙がびっしりと並んだ、おぞましい異形の相貌だった。
「ひっ……!」
エアラは初めて、本能的な「恐怖」を感じた。
これまで自分が支配し、見下していた「ゴミ箱」が、自分を遥かに凌駕する「怪物」へと変貌しているという事実。
その圧倒的な雄の暴力性を前に、彼女の体は石のようにすくみ上がった。
「待たせた詫びだ、エアラ。……たっぷり可愛がってやる」
アラリックは彼女の抵抗など意に介さず、純白の寝間着の胸元を、鋭い爪で乱暴に引き裂いた。
ビリィッ! と布が裂ける音。露わになった、豊満な胸の谷間と、その下で激しく脈打つ心臓の鼓動。
「あ……、だめ、やめて……っ!」
エアラの拒絶は、アラリックの鼻腔をくすぐる最高のスパイスにしかならなかった。
四ヶ月間、極寒の地獄で焦がれ続けた、世界で最も甘く、最も傲慢な、至高の蜜の匂い。
「ガアァァァッ!!」
アラリックは獣の咆哮を上げ、彼女の柔らかな胸元――心臓の真上へと、躊躇いなく牙を突き立てた。
ゴブチュァッ!!
「あ、が……っ! ぁぁぁぁぁッ!!」
エアラが弓なりに背中を反らし、声にならない絶叫を上げた。
痛い。熱い。怖い。
しかし、それと同時に。
彼女の体内に溜まりに溜まっていた『業』という名の猛毒が、アラリックという規格外の怪物の吸引力によって、根こそぎ吸い出されていく。
かつてないほどの暴力的な「浄化」。
それは、これまで彼女が感じていた「支配する悦び」とは真逆の、圧倒的な力で「蹂躙され、搾取される」ことによる、脳髄が焼き切れるようなマゾヒスティックな快感だった。
(ああ……何、これ……。体が、溶けてしまう……!)
恐怖と快楽の奔流の中で、エアラの瞳から涙がこぼれ落ちた。
彼女は無意識のうちに、自分を組み敷く魔王の背中に爪を立て、さらに深く、強く吸われることを求めてしがみついていた。
砕け散った鳥籠の中で、支配者と被支配者の立場が完全に逆転した瞬間。
聖女の嬌声と魔王の咀嚼音が、王都の夜に淫らに響き渡った。
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