第12話:吹雪の彼方より、死神は嗤う
氷牙の谷を見下ろす高台に、異端審問局「白銀部隊」の野営地があった。
猛吹雪を避けるための結界が張られたテントの中で、副官のガイウスは温かい葡萄酒を啜りながら、王都への報告書を認めていた。
『――討伐隊は、予期せぬ大規模な雪崩に巻き込まれ全滅。生存者なし。我々は引き続き周辺の調査を行うが、遺体の回収は絶望的である――』
「ククッ……。これで、あの目障りな『聖女の騎士』もこの世から消えた。大教主猊下もお喜びになるだろう」
ガイウスは満足げに羊皮紙を巻き取った。
あの生意気な隊長が、雪の下で無様に凍りついている様を想像するだけで、酒の味が格段に良くなる気がした。
その時だった。
テントの外を見張っていた部下の一人が、青ざめた顔で駆け込んできた。
「が、ガイウス様! 変です、谷底の様子が……!」
「騒々しい。魔獣の生き残りでもいたか?」
「いえ、違います! 吹雪の向こうから、何かが……『人間の部隊』のような影が、こちらへ向かって登ってきているのです!」
「はぁ? 馬鹿な。あの雪崩で生き残れるはずが……」
ガイウスは忌々しげに杯を置き、テントの外へ出た。
視界を白く染める猛吹雪。その轟音の彼方から、確かに「それ」は近づいていた。
ザッ、ザッ、ザッ、と。雪を踏みしめる、重く、規則正しい軍靴の音。
「な……、誰だ! 名を名乗れ!」
ガイウスが叫ぶ。しかし、返事はない。
やがて、白い闇の中から、先頭を歩く「影」の姿が浮かび上がった。
「ひっ……!?」
ガイウスの喉が凍りついた。
そこに立っていたのは、全身がどす黒い、凍りついた血の鎧で覆われた巨人だった。
兜はなく、剥き出しになった金髪は血と脂でべっとりと固まっている。そして、その顔にあるはずの両目は、人間のそれではなく、闇の中でギラギラと燃え盛る、禍々しい真紅の双眸だった。
「……よォ。随分と楽しそうに酒盛りをしているじゃないか、ガイウス殿」
地獄の底から響くような、低く、歪んだ声。
間違いなかった。雪崩に呑まれ、死んだはずの男――アラリックだ。
「き、貴様……! なぜ生きている! あの雪崩と魔獣の群れの中で、どうやって……!」
「魔獣? ああ、あの白い図体のことか。……少し硬かったが、良い『腹ごしらえ』にはなったよ」
アラリックがニヤリと笑う。その口元は耳まで裂け、サメのように鋭い牙がびっしりと並んでいるのが見えた。
その背後から、レオンをはじめとする数十名の騎士たちが、まるで感情を失った亡霊のように、無言で姿を現した。彼らの瞳にも、かつての正気は宿っていない。ただ、目の前の「魔王」への絶対的な服従の色だけが浮かんでいる。
「ひ、怯むな! 奴らは満身創痍だ! 異端者だ、殺せ! 火を放てェッ!!」
ガイウスが裏返った声で命令を下す。白銀部隊の兵士たちが、慌てて魔術の杖を構えた。
だが、遅い。
「――遅いな。狩りはもう、始まっているぞ?」
ドォンッ!!
雪煙が爆発した。アラリックの姿が掻き消えたかと思うと、次の瞬間には、最前列にいた兵士の目の前に現れていた。
「ガハッ……!?」
兵士は悲鳴を上げる間もなかった。アラリックの鋭い爪が、彼の銀の仮面ごと顔面を鷲掴みにし、そのままトマトのように握り潰したのだ。
プシュッと音を立てて、鮮血と脳漿が雪の上に撒き散らされる。
「ひ、ひいぃぃぃッ!?」
「ば、化物だ! 逃げろ、逃げろォォッ!!」
パニックが連鎖した。誇り高き異端審問官たちが、武器を捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
だが、アラリックはその背中を、楽しそうに見つめていた。
「ハハッ……逃げるなよ。せっかく、冷えた体を温めに来てやったんだ」
それは一方的な蹂躙だった。
アラリックは人間離れした跳躍力で逃げる兵士に追いつくと、その腕をもぎ取り、首をへし折り、あるいは生きたままその腹を引き裂いて内臓を引きずり出した。
レオンたち部下も、主の狂気に呼応するように、逃げ遅れた兵士たちを無感情に剣で突き刺していく。
ものの数分で、白い雪原は鮮やかな赤色に染め上げられた。
生き残っているのは、腰を抜かして失禁し、雪の上を這いずり回るガイウスただ一人となっていた。
「た、助けてくれ……! 頼む、金ならやる! 地位も、何でも……!」
ガイウスは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願した。
アラリックは、血塗れのブーツで雪を踏みしめ、ゆっくりと彼に近づいていく。
「金? 地位? ……ハッ、そんなゴミに何の価値がある」
アラリックはガイウスの胸倉を掴み上げ、その顔を自身の目の前まで引き寄せた。
間近で見るアラリックの瞳は、底なしの狂気と飢餓感で渦巻いていた。ガイウスの首筋から漂う、恐怖で強張った血の匂いが、彼の鼻腔を刺激する。
(……不味そうだ。本当に、反吐が出るほど下等な匂いだ)
「……なぁ、ガイウス。教えてくれよ。大教主の豚野郎は、王都で元気にしているか?」
「ひっ、は、はい! 猊下は……お、お元気で……ッ!」
「そうか。それは良かった」
アラリックは、子供のように無邪気に笑った。
「なら、お前はもう用済みだ。……安心しろ。あの豚も、すぐに同じ場所へ送ってやる」
「や、やめ――」
アラリックが口を大きく開けた。
次の瞬間、彼の鋭い牙が、ガイウスの喉笛に深々と突き立てられた。
ゴグチュァッ!!
「が、ご、ぼォ……ッ!?」
ガイウスの口から、血の泡が吹き出す。
アラリックは彼の悲鳴など意に介さず、まるで獣が獲物を食いちぎるように、首を左右に激しく振った。
肉が裂け、骨が砕ける生々しい音が響き渡る。
数秒後。アラリックが顔を上げると、ガイウスの体は首から上が失われ、ピクリとも動かなくなっていた。
「……ペッ」
アラリックは口の中に溜まった肉片と血を、汚いものでも吐き捨てるように雪の上に吐き出した。
不味い。泥水どころか、腐った油を飲んだような不快感だ。
これでは渇きが癒えるどころか、余計に『あの御方』の極上の蜜が恋しくなるだけだ。
「……片付けろ。王都への土産にする」
アラリックが短く命じると、レオンたちは無言で頷き、ガイウスたちの死体から「銀の仮面」と「白衣」を剥ぎ取り始めた。
雪原に残されたのは、首のない死体と、血に飢えた魔王の軍団だけだった。
復讐の第一幕は、これ以上ないほど残酷に、そして完璧に幕を下ろした。
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<beens 過去作>
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