第10話:白銀の裏切りと、死地で嗤う獣
「氷牙の谷」。
一年中、太陽の光が届かず、鋭い氷柱が牙のように連なる北方の難所である。
異端審問官ガイウスの「ここに魔獣の巣がある」という情報に基づき、アラリック率いる討伐隊の先陣は、この薄暗い谷の底へと足を踏み入れていた。
「隊長……異常なほどの静けさです。魔獣の気配すら――」
副官のレオンが、凍える息を吐きながら周囲を警戒する。
その時だった。
――ドゴォォォォンッ!!
突如、谷の後方で耳を劈くような爆発音が轟いた。
アラリックたちが振り返ると、彼らが入ってきた谷の入り口が、仕掛けられた火薬による人為的な雪崩で、完全に塞がれているではないか。
「なっ……!? 雪崩だと!?」
「いや、違う! 崖の上を見ろ!」
雪煙が晴れた崖の遥か上方に、銀の仮面をつけたガイウスたち「白銀部隊」が立ち並んでいた。彼らは谷底にアラリックたち数十名を置き去りにしたまま、嘲笑うように見下ろしている。
『――不運な事故でしたな、アラリック隊長!』
風に乗って、ガイウスの拡声魔術による声が響き渡った。
『勇敢なる討伐隊は、突然の雪崩と魔獣の襲撃により全滅。……大教主猊下も、さぞお悲しみになることでしょう。聖女様には、私がしっかりと事の顛末をお伝えしておきますよ!』
「ガイウス貴様ァッ!! 最初からこれが狙いか!」
レオンが血を吐くような声で叫ぶが、もう遅い。白銀部隊は崖の上から姿を消した。
そして、真の絶望はここからだった。
爆発音を聞きつけ、谷の奥深くから「それ」が現れたのだ。
「ギィィィ……ルルルルッ」
体長五メートルを超える、六本脚の巨大な白熊――特A級指定の魔獣「氷雪巨獣」の群れである。その数は十や二十ではない。谷底を埋め尽くすほどの白い悪夢が、ヨダレを垂らして彼らを包囲しつつあった。
「嘘だろ……。こんな数、勝てるわけがない……」
騎士たちの何人かが、恐怖で剣を取り落とし、雪の上にへたり込んだ。
レオンでさえ、完全に死を覚悟したように唇を噛み締めている。絶対絶命。人間の力では、どう足掻いても数分後には肉片に変わるだけの状況だ。
しかし。
彼らの絶望の中心で、アラリックは――低く、くぐもった声で嗤っていた。
「ふ、ふふ……あははははっ!」
「た、隊長……?」
狂ったように笑うアラリックの体から、尋常ではない熱気が立ち昇り始めた。
周囲の雪が「ジュゥゥッ」と音を立てて溶け、白い蒸気が彼を包み込む。
(……死ぬ? 私が、こんな泥水のような魔獣の群れに食い殺されるだと?)
冗談ではない。
アラリックの脳裏に、あの純白の自室で自らの太ももを傷つけ、血を与えてくれたエアラの姿が浮かぶ。
『――半年間、他のどんな血を啜ろうとも、決して私の味を忘れないように』
『――私を奪おうとするあの豚どもを皆殺しにする、真の怪物になって帰ってくるのです』
(そうだ。私は、あの御方と誓ったのだ。こんな氷の底で野垂れ死に、あの至高の蜜を二度と味わえなくなることなど……絶対に、許されないッ!)
「……レオン。お前たちは、そこで目を閉じていろ」
アラリックは、腰の騎士剣を雪の中に無造作に放り捨てた。
「え……?」
「ここから先は、騎士の戦いではない。ただの……『食事』だ」
ドンッ!! と。
アラリックの背中から、どす黒い真紅のオーラが爆発的に噴き出した。
被っていた兜が、内部から膨張した異常な熱と闘気によって弾け飛ぶ。
露わになった彼の顔は、もはや人間の原型を留めていなかった。右目だけでなく左目までもが血のような真紅に染まり、口元は耳まで裂け、サメのように鋭い牙がびっしりと生え揃っている。
「ガアアアアッ!!」
先陣を切って飛びかかってきた氷雪巨獣の巨体に、アラリックは素手で正面から激突した。
ドグシャァァッ!!
人間の何十倍もの質量を持つ魔獣の突進を、アラリックはたった片手で受け止め、そのまま怪物の頭蓋骨を指の力だけで粉砕した。
「な……!?」
レオンたちは、自分たちの隊長が起こしたあり得ない光景に、息を止めた。
「ああ……不味い。不味い不味い不味い不味いッ!!」
アラリックは脳漿を撒き散らして倒れた巨獣の死骸を蹴り飛ばし、次の獲物へと跳躍した。
もはや剣など必要ない。彼の両手から伸びた漆黒の爪が、鋼鉄よりも硬い魔獣の毛皮を豆腐のように切り裂き、内臓を雪原にぶち撒けていく。
圧倒的。あまりにも一方的な、捕食者による蹂躙。
魔獣の血を浴びるたび、アラリックの狂気は加速していく。
(こんな血ではダメだ! 渇きが癒えない! 早く終わらせて、王都へ帰らなければ……私の、私の聖女様の元へ!!)
氷雪の谷に、騎士の号令ではなく、餓えた真王の恐ろしい咆哮が響き渡る。
崖の上でほくそ笑んでいた異端審問官たちはまだ知らない。
自分たちが氷の谷に突き落としたのは、ただの人間ではなく、鎖を解かれた「最悪の魔王」であったということを。
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<beens 過去作>
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