第9話:白雪の飢餓と、脈打つ喉笛の誘惑
王都を離れて三ヶ月。
北方の最果て、見渡す限りの白魔(猛吹雪)が吹き荒れる極寒の雪原を、討伐隊は重い足取りで行軍していた。
「……ッ、はぁ……っ、が……」
分厚い毛皮の外套を羽織り、馬を引くアラリックの呼気は、吐き出したそばから白く凍りついていく。
しかし、彼を苦しめているのは外気の異常な冷たさではない。彼の内側――干からびた血管と胃の腑を焼き焦がす、狂おしいほどの『飢餓』だった。
(渇く。喉が、焼けるように……痛い……ッ!)
エアラから最後に与えられた、あの太ももの奥の極上の蜜。
その効力は、とうの昔に切れていた。今の彼を突き動かしているのは、彼女と交わした「真の怪物になって帰る」という狂った誓いと、執念だけだ。
だが、肉体の限界は確実に近づいていた。呪いの進行に伴い、視界の端が常に赤く明滅し、耳鳴りのように『血を啜る音』の幻聴が絶え間なく響き続けている。
「どうしました、隊長殿。随分と足取りが重いようですが。やはり『温室育ち』の騎士には、この北方の風は堪えますかな?」
吹雪の中から、ぬらりと近づいてきた影があった。
異端審問局から「監視役」として送り込まれた白銀部隊の副官、ガイウスだ。銀の仮面の下で、人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべている。
アラリックは兜の奥で、ギラリと真紅の右目を光らせた。
ガイウスが近づいてきた瞬間、強風に乗って強烈な『匂い』がアラリックの鼻腔を打ち据えたからだ。
(血の、匂い……?)
見れば、ガイウスの頬には、先ほどの魔獣との小競り合いでついたであろう浅い切り傷があり、そこから一筋の赤い血が滲み出ていた。
トクン。トクン。
吹雪の音をかき消すほどの爆音で、ガイウスの頸動脈が脈打つ音が聞こえる。
凍りついた世界の中で、その温かい血の匂いは、餓死寸前の獣の前に吊るされた極上の生肉も同然だった。
(ああ……食べたい。あの首をへし折り、喉笛を引きちぎって、その温かい中身を飲み干したい……!!)
「グルゥ……ッ」
アラリックの喉の奥から、無意識に低く唸るような音が漏れた。
視界が完全に赤く染まる。理性のタガが外れ、右手がゆっくりと腰の大剣の柄へと伸びていく。
今、ここでこいつを殺せば。この不快な男の血を啜れば、この脳を焼くような渇きから一瞬でも解放される。
「ん? 何か言いましたか、隊長殿。まさか、寒さで舌まで凍りついたのでは――」
ガイウスが嘲るように一歩踏み出し、アラリックの肩に手を伸ばした、その瞬間。
『――半年間、他のどんな血を啜ろうとも、決して私の味を忘れないように』
脳裏に、エアラのあの冷たく、甘い声がフラッシュバックした。
(――ッ!!)
アラリックの右手がピタリと止まった。
違う。こんな泥水のような男の血で渇きを潤せば、私は『あの御方』との誓いを破ることになる。あの至高の蜜を与えられる資格を失ってしまう。
「……触るな」
アラリックは、ガイウスの手を弾き飛ばした。
その声は地を這うように低く、絶対的な殺意を孕んでいた。ガイウスは一瞬、その威圧感に気圧されて数歩後ずさった。
「な、なんだその目は……! 貴様、私に逆らう気か!」
「……戦の古傷が痛むだけだ。気安く触れられると、つい『斬り捨てて』しまいそうになる。……監視の役目ご苦労だが、私の背後には立たないことだ」
アラリックは血を吐くような思いで殺意(食欲)を飲み込み、無理やり言葉を紡ぎ出した。
ガントレットの中で、自らの掌に爪を深く突き立てる。己の肉を切り裂く激痛だけが、ガイウスの喉笛に飛びかかりたいという衝動をギリギリで相殺していた。
「チッ……。強がりを。せいぜい雪の中で野垂れ死なないことだな」
ガイウスは忌々しげに舌打ちをして、吹雪の中へと消えていった。
彼が離れた瞬間、アラリックは雪の上にドサリと膝をついた。
限界だった。雪を掴み、兜の隙間から口の中へと押し込む。氷の冷たさで胃の腑の熱をごまかそうとするが、まるで焼け石に水だ。
「はぁっ……エアラ、様……。ああ、エアラ様……ッ!」
血塗れの掌を顔に押し当て、彼は雪原の中で孤独に咽び泣いた。
彼女の匂いが恋しい。あの柔らかな太ももの感触が恋しい。
こんな下等な豚どもの血ではなく、あなたという猛毒で、私を満たしてほしい。
人間としての理性ではなく、「エアラへの狂おしい依存」だけが、今の彼を人間側に繋ぎ止めている。
雪に閉ざされた地獄の底で、堕ちた騎士の渇望は、底知れぬ狂気へと変貌を遂げようとしていた。
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<beens 過去作>
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