外れない理由は、誰にもない
「じゃあ、一度こちらで確認してみますね」
電話口の声は、とても丁寧だった。
丁寧すぎて、逆に何も期待できない種類の丁寧さだった。
三枝恒一は、ウサギのまま受話器を耳に当てている。正確には、耳のあたりに押し当てている、が近い。位置が少しずれると、相手の声が急に遠くなる。
「はい。昨日から、外れなくて」
『はい』
「首元が……はい」
『なるほど』
なるほど、という言葉が何を指しているのかは、わからなかった。
相手は着ぐるみ制作会社だった。
会社名を聞いた瞬間、「あ、ダメだな」と三枝は思った。
理由はない。ただ、声のトーンと、「前例」という単語が、すでに二度ほど出てきたからだ。
『構造的には、外れない設計ではないんです』
「ですよね」
『ただ……』
この「ただ」は、だいたい何も続かない。
『念のため、実物を見ないと何とも言えなくて』
「今、被ってます」
『……被って、いらっしゃる』
一瞬、沈黙があった。
『それは、その……お疲れさまです』
労われてしまった。
「今日、持ち込むことは」
『あー……』
その間が、すべてを物語っていた。
『今日は担当が出払ってまして』
「そうですか」
『明日以降なら』
「検討します」
電話を切ったあと、三枝はしばらく机に突っ伏した。
耳が邪魔で、完全には伏せられなかった。
「どうでした?」
黒川が、さりげなく声をかけてくる。
「前例がないそうです」
「ですよね」
「担当がいないそうです」
「ですよね」
会話が、想定通りに進みすぎていた。
午前中、今度は医者に行った。
会社を抜けることに、誰も異議を唱えなかった。
ウサギが外出すること自体が、もう特別扱いされていない。
診察室で、医師は三枝を見て、一瞬だけ言葉を失った。
「……どうされました?」
「取れなくなりまして」
「それは……」
医師はウサギの首元を覗き込み、軽く触れた。
「痛みは?」
「ないです」
「息苦しさは?」
「ないです」
「発疹や、しびれは?」
「ないです」
医師はカルテに何かを書き込んだ。
「命に関わる状態ではないですね」
それは、安心する言葉のはずだった。
「外れますか」
「無理に外すと、首を傷める可能性があります」
「じゃあ」
「様子を見ましょう」
三枝は、その言葉を、もう何度目かで聞いた。
会社に戻ると、昼休みだった。
山本が、ウサギを見るなり手を振る。
「お、どうだった?」
「外れない」
「ですよね!」
なぜか嬉しそうだった。
「でもさ」
山本は弁当の箸を動かしながら言う。
「別に困ってないですよね、今のところ」
三枝は返事をしなかった。
困っていない、というのは事実だった。
仕事は回っている。
会話は成立する。
誰も責めない。
困っていない。
それが、問題だった。
午後、霊感があるという人まで連れてこられた。
黒川の知り合いの知り合いらしい。
「気の流れが、耳に集中してますね」
「耳、ですか」
「はい。ウサギの」
説明はふわふわしていたが、言い切る力だけはあった。
「取れる可能性は」
「ご本人が、取れないと思っているうちは」
三枝は、その言葉に少しだけ引っかかった。
「思ってる、というのは」
「環境が許している間は、ですね」
環境。
会社を見回す。
誰も困っていない。
誰も急がせない。
日向部長は、いつも通りだった。
「どうだった」
「原因不明です」
「そうか」
それだけだった。
「明日も、来れる?」
その質問は、自然すぎた。
「……はい」
三枝は答えていた。
帰り道、コンビニに寄る。
店員は、もう視線も止めなかった。
「温めますか?」
「はい」
ウサギのまま頷く。
袋を受け取りながら、三枝はふと思った。
もし、今、外れたら。
このまま人間に戻ったら。
明日から、また普通に扱われる。
急かされ、求められ、説明を求められる。
ウサギでいる今の方が、
ずっと安全だった。
その考えに気づいた瞬間、
三枝は、少しだけ背筋が冷えた。
外れない理由は、誰にもなかった。
けれど、
外れなくてもいい理由は、
少しずつ、揃い始めていた。




