慣れる側の人間
目覚ましが鳴ったとき、三枝恒一は一瞬、自分がなぜこんなに首が重いのか理解できなかった。
次の瞬間、視界の端に白い毛が入り込んで、思い出す。
「……ああ」
ウサギだ。
夢ではなかった。
被り物は、相変わらずしっかりと首元に収まっている。
外そうと両手を伸ばし、昨日と同じところで止まる。
動かない。
びくともしない。
「……だよな」
納得してしまった自分に、三枝は少し驚いた。
もっと取り乱してもよさそうなのに、感情は驚くほど平坦だった。
出社するしかない、という結論に至るまで、五分もかからなかった。
会社に行けば、誰かが何とかしてくれるかもしれない。
あるいは、何ともならないかもしれないが、それはそれだ。
スーツを着る。
昨日と同じ動作を、昨日よりも慣れた手つきでこなす。
鏡の前のウサギは、昨日より少しだけ落ち着いて見えた。
通勤電車では、昨日と同じように視線を集め、昨日と同じように誰も何も言わなかった。
もはや驚きもしない自分がいる。
会社に着くと、受付の人が一瞬だけ目を見開き、すぐに笑顔に戻った。
「おはようございます」
「おはようございます」
ウサギの声で挨拶を返す。
それで通じてしまう社会に、三枝は軽い眩暈を覚えた。
フロアに入ると、山本が真っ先に気づいた。
「おー、まだウサギ」
「おはよう」
「おはようございます!」
山本はなぜか丁寧だった。
黒川はメガネを押し上げながら、冷静に言った。
「一晩経っても外れないなら、物理的な問題ですね」
「昨日もそう言ってた」
「はい。今日も同じ結論です」
日向部長は、書類から目を離さずに言った。
「とりあえず座って」
三枝は自分の席に座った。
椅子は普通に使えた。
キーボードも打てた。
ウサギでも、仕事はできる。
「……普通に業務始まってません?」
思わずそう言うと、部長は顔を上げた。
「締切は待ってくれないから」
それ以上の説明はなかった。
午前中は、驚くほど平穏だった。
電話は黒川が代わり、来客対応は山本が引き受けた。
三枝は資料をまとめ、メールを送り、いつも通り働いた。
昼休み、社内の食堂に行くかどうかで少し迷ったが、結局行った。
「ウサギのまま来た人、初めて見た」
「でも違和感ないね」
「むしろ落ち着く」
そんな会話が、背後から聞こえる。
注文口の人は、迷いなく言った。
「日替わりでいいですか?」
「はい」
それで成立した。
午後、取引先が来た。
名刺交換の場面で、一瞬だけ空気が止まる。
「……イベント中ですか?」
「いえ」
三枝がそう答えると、相手は少し考えてから頷いた。
「そうですか」
それ以上、踏み込んでこなかった。
夕方、黒川がぽつりと言った。
「もう、誰も気にしてませんね」
「そうだね」
三枝は画面から目を離さずに答えた。
「気にしてないのは、周りで」
黒川は続けた。
「一番慣れてるの、三枝さんですよ」
その言葉が、思った以上に胸に残った。
帰り際、日向部長が言った。
「明日、専門業者に連絡する」
「……はい」
「今日は、お疲れ」
それは、昨日と同じ言葉だった。
会社を出ると、夕焼けがウサギの視界を赤く染めた。
通りすがりの子どもが手を振る。
「ばいばい、うさぎさん」
三枝は、少しだけ手を振り返した。
その動作が自然すぎて、
自分でも、少しだけ怖くなった。
ウサギは、取れないままだった。
けれど、世界は、何事もなかったように回っていた。
それが、この物語の始まりだった。




