第67話:闇に潜む刃
情報戦での惨敗、そして賢者シオンの無様な失脚。立て続けの失態により、勇者連合の最高幹部たちの焦りは極限に達していた。
「シオンの無能が。……結局、最後に頼りになるのは確実な『死』だけね」
夜の帳が平和特区『ベルンシュタイン・サンクチュアリ』を深く包み込む頃。特区の防壁の外で、一人の少女が闇に同化していた。ミチル――前世で聖良の影として動き、その命を奪う手助けをした「暗殺者」である。
彼女の狙いは二つ。魔女アリシアの暗殺、それが不可能であれば、アリシアの弱点であるベルンシュタイン辺境伯夫妻の誘拐。
「私の気配遮断は世界一。聖女の時のお前だって、一度も私の接近に気づけなかった……。今度も同じよ、聖良」
ミチルは息を潜め、魔力を完全にゼロにする特殊な隠密術式を発動させた。音もなく、陽炎のように防壁をすり抜け、特区の内部へと侵入する。彼女の歩みは、いかなる警備兵の目にも留まらず、ただの静かな夜風として通り過ぎていくかのように見えた。
だが、彼女は決定的な事実を見落としていた。現在の特区は、かつて彼女が侮っていた「人間の防衛陣」ではないということを。
ミチルが一歩を踏み出した瞬間、彼女の背後の空間が奇妙に歪んだ。
「――ねえ、ルナリエお姉様。今の不自然な風の揺らぎ、見えたかしら?」 「ええ、リリス。魔力を消しても、そこにある質量が空気を押し出す。私の『風の結界』を騙せると思ったのかしらね」
頭上から聞こえてきた妖艶な声に、ミチルは総毛立ち、瞬時にその場から跳躍して間合いを取った。 見上げれば、屋根の上に腰掛けたリリスが、嗜虐的な笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。その隣には、弓を構えることすらせず、冷徹に風を操るルナリエの姿があった。
「精神感知にもバッチリ引っかかっているわよ? 復讐と焦燥に濁った、とても醜い精神の波形がね」(リリス)
「くっ……!」
侵入が完全に読まれていたと悟ったミチルは、即座に反転し、強行突破で辺境伯の館へと地を駆けた。神速の踏み込み。だが、目的の執務室の扉を突き破った瞬間、彼女の身体は、部屋を埋め尽くしていた漆黒の闇の触手によって、空中で完全に縫い付けられた。
「がはっ……!? 身体が、動かない……!」
闇の檻の中心、贅沢な椅子に深く腰掛けた私は、冷たい瞳で、宙に吊るされた哀れな暗殺者を見つめた。
「相変わらずネズミのようにコソコソと動き回るのが好きね、ミチル」
「聖良……ッ! 離せ、この化け物め!」
身をよじるミチルに対し、私はため息を一つ吐き出し、頬杖をついた。その瞳には、かつての仲間への怒りすらなく、ただ路地裏の不快な生き物を見るような、絶対的な蔑みだけが宿っていた。
「勘違いしないで。今の貴方は、私にとって命を狙い合うに値する『暗殺者』ですらないわ。……ただ、許可なく我が家に這い込んできた『不快な害虫』。それ以下よ」
私の指先が黒く明滅する。暗闇に潜む刃だと自惚れていた少女は、自分がすでに、逃れられぬ巨大な蜘蛛の巣にかかった獲物に過ぎないことを、その身を以て知ることとなった。




