第58話:仮面を脱ぐ聖女
静寂が支配する執務室の中で、銀髪の美しい魔族――リリスが静かに扉を閉めた。外の喧騒は完全に遮断され、部屋にはベルンシュタイン辺境伯夫妻と、姉の背中を追っていつも笑っていた幼い妹、そして私だけが取り残される。
「……魔王軍の将、深淵の魔女とお見受けする。我が領民を虐げる王国の軍勢を退けてくれたことには感謝するが、我ら辺境伯家、魔族に命乞いをするつもりはない」
父は怯える母と妹を背後に庇いながら、震える手で剣を厳然と構え直した。その瞳には、領主としての、そして父親としての誇りと覚悟が満ちている。
私はその姿をじっと見つめた後、深く息を吐き出し、顔を覆っていた漆黒の魔力の仮面を、静かに霧散させた。
「お父様。お母様。それに、ルシア」
「――え?」
私の口から紡がれた懐かしい声と、露わになったその容貌に、父の剣がカランと音を立てて床に落ちた。母は息を呑んで両手で口を覆い、妹のルシアは大きな瞳からポロポロと涙を溢れさせながら、信じられないというように私を見つめている。
「嘘……だろ……。お前は、聖良なのか……? だが、お前は二年前、王都の処刑台で……」
「ええ、私は一度死んだわ、お父様。王国を救うために戦い、最後は信じた仲間に裏切られて、国家反逆の汚名を着せられたままね」
私は自らの胸に手を当て、冷徹な響きを帯びた声で告げた。
「今の私は、かつての清らかな聖女ではないわ。奈落の底から這い上がり、魔王ゼノス様と契約を交わした復讐の魔女――アリシア。この国を根底から塗り替えるために、魔族の手を取りました」
「聖良……ちゃん……本当に、聖良ちゃんなのね……!」
母が父の制止を振り切り、私の元へ駆け寄ってその華奢な身体を抱きしめてきた。続いてルシアも「お姉ちゃん!」と叫びながら、私の腰にしがみついて激しく泣きじゃくる。
「どんな姿になっても、貴女は私たちの愛する娘よ……! 酷い目に遭わせて、守ってあげられなくて、ごめんなさい……!」
温かい涙が、私の漆黒の外套に染み込んでいく。 その温もりに、私の凍りついた心が僅かに揺らいだ。今の私は魔女であり、家族を驚かせる禍々しい闇の力を宿している。突き放すべきだという理性が頭を過る。しかし、私は上がる手を止められず、不器用な手つきで母の背中にそっと手を回し、ルシアの頭を優しく撫でた。
「……もう泣かないで、お母様、ルシア。私はもう、誰にも脅かされない強さを手に入れたわ。これからは、私が貴方たちを守る番よ」
家族を裏切った世界を私は絶対に許さない。けれど、世界を敵に回してでも守るべきものが、今確かに私の腕の中にあった。アリシアとしての冷徹な覚悟の裏で、私は「聖良」としての変わらぬ情愛を、ただ静かに、噛み締めるように示し続けた。




