第38話:恐怖からの心服
「……おねがい、ゆるして……。もう、なにも、みたくない……っ」
私の精神の底、どす黒い泥に埋もれたリリスは、もはや言葉を紡ぐことすら困難なほどに衰弱していた。彼女の誇りだった桃色の精神体は、絶望の墨汁に浸されたように薄汚れ、ガタガタと無様に震えている。
私はそんな彼女の前に膝をつき、汚れ一つない指先で、その濡れた頬を優しく撫でた。
「許してほしい? 自分で扉をこじ開けておいて、勝手な言い分ね。リリス」
私の指先が彼女の首筋に触れた瞬間、リリスの体はびくんと跳ねた。それは死の恐怖というより、自分という存在が強大な何かに上書きされることへの、根源的な震え。
「……ねえ、リリス。貴女が今まで壊してきた人たちは、みんなこうやって許しを乞うたのでしょう? その時、貴女はどうしたかしら?」
「…………っ」
「きっと、笑って踏み潰したはずよ。他人の絶望を蜜のように味わいながら。……だから、私も同じことをしてあげる。対価は、貴女の魂そのものよ」
私は彼女の首をゆっくりと絞め上げた。 精神世界での死は、肉体の死よりも惨酷だ。思考が消え、記憶が混濁し、自分という「個」が他者の深淵に吸収されていく。
リリスの瞳に、私の姿が映る。 冷酷で、美しく、圧倒的な「悪」。 彼女がこれまで見てきたどの魔族よりも深く、どの魔王よりも苛烈な「闇」そのもの。
(……ああ。なんて、綺麗なの……)
死の間際、リリスの脳裏に走ったのは、皮肉にも「崇拝」の念だった。 恐怖の限界点を超えた時、リリスの壊れかけた精神は、生存本能からその圧倒的な力を「絶対的な正義」として再定義したのだ。
「……お……ねえ……さま……。私の……ぜんぶ……ささげ……ます……。だから……」
リリスの手が、力なく私の腕に添えられる。 それは抵抗ではなく、縋るような、愛おしむような接触。
「……私を、貴女の……ものに……して……」
その言葉が聞こえた瞬間、周囲の絶望の景色がガラスのように砕け散った。 リリスの精神の「核」が、自ら進んで私の魔力に身を委ね、服従の烙印を受け入れたのだ。
「……ふふ。いい子ね、リリス」
私は手を離し、陶酔したような瞳で私を見上げる少女を、静かに見下ろした。 もはや、そこに生意気な暗殺者の姿はない。 深い深淵の淵で、私という魔女の虜になった一匹の飼い犬。
精神世界の闇が晴れ、私たちは現実の離宮へと戻っていく。




