第33話:聖魔女の帰還
最後の一人が門をくぐり、アルカディア砦は完全な静寂に包まれた。 数時間前まで三千人の熱気が渦巻いていた場所には今、主を失った武器と、私が残した漆黒の霧だけが漂っている。
私は指を鳴らし、空を覆っていた『隔離結界』を解除した。 一気に流れ込んできた夕陽の朱色が、誰もいない広場を血のように赤く染め上げる。
「……終わったわね」
背後で気配がした。バルバスだ。彼は私が組み伏せた過激派の魔族たちを忌々しそうに蹴り飛ばしながら、隣に並んだ。
「驚いたぞ。本当に一人も殺さず、あの堅物どもを追い出すとはな。……アリシア、貴様がやったことは、力で押し潰すよりも残酷だぞ」
「あら、褒め言葉として受け取っておくわ」
「ああ、褒め言葉だ。恐怖で従わせるのではなく、信じていた価値観そのものを腐らせて捨てさせた。……人間どもにとって、これ以上の屈辱はあるまいよ」
バルバスは愉快そうに笑い、私の肩に手を置こうとしたが、私の冷たい視線に気づいて手を引っ込めた。
「……さて、魔王城へ戻るぞ。ゼノス様がお待ちだ」
魔王城の謁見の間。 私が足を踏み入れると、以前のような蔑みの視線は消え、代わりに底知れない「恐怖」を孕んだ沈黙が私を迎えた。 たった一人で王国最強の砦を無血開城させた。その事実は、武勇を尊ぶ魔族たちにとって、どんな虐殺よりも理解不能で、それゆえに恐ろしいものとして映っていた。
玉座に座るゼノス様は、片手で顔を支え、相変わらず退屈そうに私を見つめていた。
「戻ったか、アリシア。……報告は聞いている。一度も剣を振るわず、敵を『人間に戻して』帰したそうだな」
「ええ。死体は何も語りませんが、生き恥を晒した三千人の口は、王国の腐敗を広める最高の媒体になりますから」
「ふっ……。やはり貴様は毒だ。それも、時間をかけて神経を焼き切る、極上のな」
ゼノス様は立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてきた。そして、私の右手の甲にある「闇の蓮華」をそっと指先でなぞる。
「初陣の褒美だ。貴様が隠した家族の聖域に、我が直属の隠密部隊を配置した。許可なく近づく者は、例え王国の騎士であろうと魔族の将であろうと、その場で魂ごと消去させよう」
「感謝いたします、陛下」
私は深く一礼した。 これでいい。 正義の味方として世界を救っていた時には、指の間からこぼれ落ちていった「本当に欲しかったもの」が、今は私の手の中に確かにある。
「……しばらく休みをいただけますか? 家族に、美味しいハーブティーを淹れる約束があるのです」
「……行け。貴様の『安息』を邪魔するほど、私は野暮ではない」
魔王の許可を得て、私は城を後にした。 夕闇が迫る空へ飛び立ちながら、私は遠く離れた静かな森の里を想う。
人間からは「裏切りの聖魔女」と呼ばれ、魔族からは「深淵の特務官」と恐れられる存在。 けれど、愛する両親の前でだけ、私はただの「アリシア」に戻る。
守るべきものが明確になった今、私の心はかつてないほどに凪いでいた。




