第32話:無血開城
沈黙が支配する広場で、レオがゆっくりと立ち上がった。 彼の手にある剣は、もはや私に向けられてはいない。彼は、足元に転がる王宮の横領記録と、私に組み伏せられた魔族の将領を交互に見つめ、深く、長く吐息をもらした。
「……負けた。完敗だ、アリシア殿」
レオは静かに膝を突き、自身の剣を地面に置いた。それが合図だったかのように、壁の上や物陰に潜んでいた三千人の兵士たちも、次々と武器を捨て、乾いた金属音が砦に鳴り響いた。
「賢明な判断ですわ、レオ」
「……一つだけ聞かせてくれ。貴女の中に、かつての聖女様は……あの優しかった『エトワール』様は、もう欠片も残っていないのか?」
レオの悲痛な問いに、私は一瞬だけ視線を逸らした。 前世で彼に剣を教えた記憶。あの時の私は、確かに「誰かのために」と願っていた。けれど、その願いが私という人間を壊したのだ。
「……あの方は、あの日、冷たい地面の上で死にましたわ。……今ここにいるのは、自分の大切なもの以外、すべてを切り捨てる覚悟を決めた魔女です」
私はレオの目をまっすぐに見据えて告げた。 「レオ。貴方たちには二つの道があります。このまま王国の犬として、増援も来ないこの闇の中で果てるか。……あるいは、武器を捨て、一人の人間として家族の待つ故郷へ帰るか」
「帰っても……我らは敗残兵。反逆者の言葉に惑わされた臆測者として、処罰されるだけだ」
「いいえ。この砦を覆う私の結界は、貴方たちが『全滅』したように見せかける偽装を施します。王都には、アルカディア砦は魔女の呪いによって消滅したと伝えなさい。……死んだはずの人間がどこで何をしようと、死神の知ったことではありませんわ」
兵士たちの間に、衝撃と、それから震えるような歓喜が広がった。 それは「救済」などという綺麗な言葉ではない。アリシアという圧倒的な悪が提示した、唯一の「生き残り」の道。
「……恩に着る、と言うべきだろうな。……いや、今はただ、礼を言わせてくれ」
レオは再び頭を垂れた。 砦の巨大な正門が、音を立てて開いていく。 かつては魔族を拒むための門が、今は兵士たちが「生」へと踏み出すための出口となった。
一列に並び、武器を置いた兵士たちが、漆黒のドームの隙間から外へと消えていく。その背中を見送りながら、私は右手の刻印をそっと撫でた。
血の一滴も流さず、王国最強の盾が崩れ去った。 私が手にしたのは、勝利の栄光ではなく、王国の「正義」という名のメッキが剥がれ落ちる、その崩壊の音だった。




