第31話:虐殺の否定
砦の空気が絶望と沈黙に支配される中、上空の漆黒のドームが不気味に揺れた。
「ヒャッハー! 待ちきれねえぜ、アリシア様!」
結界の裂け目から、魔王軍の過激派「血に飢えた獣騎士団」の面々が、巨大な飛竜に乗って降下してきた。彼らはアリシアが砦の戦意を削ぎ落としたのを見て、自分たちが「仕上げ(虐殺)」をする番だと勘違いしたのだ。
「無抵抗な人間どもをなぶり殺しにするのは最高だ! 聖女だったお前も、その快楽に酔いしれろ!」
先頭に立つ筋骨隆々の魔族が、大斧を振り上げ、うずくまる若い新兵の首を跳ねようとした――その瞬間。
「……誰が、手を出していいと言いましたか?」
空気が凍りついた。 物理的な氷結ではない。アリシアから放たれた殺意の波動が、魔族たちの筋肉を硬直させ、飛竜の翼を麻痺させたのだ。
「な、なんだ……体が、動かねえ……!?」
「私は、無意味な殺生はしないと魔王陛下にも申し上げたはずです。……私の許可なく、この領域で命を散らすことは許しません」
アリシアはゆっくりと魔族たちの方へ歩み寄る。その一歩ごとに、地面から黒い茨が噴き出し、魔族たちの四肢を絡め取った。
「私の目的は、愛する者の安息を守ること。……死体の山を築くことは、その安息を汚す行為です。私の『仕事』を汚す不純物は、味方であっても排除しますわ」
「ぐ、あああ……っ!」
アリシアが指を鳴らすと、獣騎士団のリーダーは凄まじい重圧に押し潰され、広場の石畳にめり込んだ。それまでアリシアを「魔女」として怯えて見ていた人間の兵士たちは、自分たちを魔族の蹂躙から救った彼女の姿に、言葉を失った。
「レオ。勘違いしないで。私が貴方たちを助けたのは、慈悲ではありません。……死人に口なし。貴方たちには生きて帰ってもらい、王宮がいかに腐敗しているか、その『証人』になってもらわなければ困るのです」
アリシアの瞳には、かつての「聖女」のような温もりはない。 けれど、無秩序な殺戮を拒絶するその峻烈な気高さは、救いを求める兵士たちの目には、皮肉にもかつての「聖女」以上の神々しさを持って映っていた。
「……殺さない。……本当に、俺たちは死ななくていいのか?」
兵士たちの中に、小さな希望が灯り始める。 それは、偽りの正義に殉じる誇りよりも、ずっと生々しく、力強い「生への執着」だった。




