第24話:魔王ゼノスの深淵
扉が開かれた瞬間、私の肌を叩いたのは、重力そのものが変質したかのような圧倒的な魔圧だった。
玉座に座る男、魔王ゼノス。 彼は頬杖をついたまま、退屈そうに私を見つめていた。その双眸は、深淵のように底知れず、同時に鏡のように私の内面を反射しているように感じられた。
「……連れてきたか、バルバス」
その声は低く、そして澄んでいた。 バルバスは玉座の前で膝をつき、恭しく頭を垂れる。
「はっ。かつて我らと死闘を繰り広げた『聖女』……その魂を宿した、アリシア・ベルンシュタインにございます」
ゼノスはゆっくりと立ち上がり、階段を下りて私に近づいてきた。 一段、また一段と近づくたびに、空間がひび割れるような緊張感が走る。王宮の魔導師たちが束になっても、この男の片手にも及ばないだろう。
彼は私の数歩前で立ち止まり、じっと私の顔を覗き込んだ。
「……面白い。魂の色は純白のままだというのに、それを包む魔力は泥のように濁り、絶望に濡れている。……アリシアと言ったか。貴様、人間に裏切られたな?」
唐突な問いに、私は一瞬息を呑んだ。 ゼノスの瞳は、私が隠そうとしていた前世の凄惨な最期と、今世で踏みにじられた愛の欠片を、一瞬で、そして正確に見抜いていた。
「……裏切られた、という言葉は正確ではありませんわ」
私は逃げずに、魔王の瞳を見返した。 ここで怯めば、私はただの「逃亡者」として終わる。
「私はただ、利用価値がなくなったから捨てられただけです。……そして、私が守ろうとした『正義』が、ただの虚像だったと気づいただけのこと。……魔王陛下、貴方は私をどうなさるおつもりですか?」
「どうするか、だと?」
ゼノスは冷ややかに笑い、私の顎を指先でクイと持ち上げた。
「貴様はかつて、我ら魔族にとって最大の災厄だった。この場で首を跳ね、魂を砕いても誰も文句は言わん。……だが、貴様の瞳には、復讐心よりも深い『執着』が見える」
ゼノスの指先から、私の喉元へ冷たい魔力が流れ込んでくる。
「問おう。貴様は人間に絶望し、この世界を滅ぼしたいのか? 貴様を裏切った者たちを、その力で蹂心したいのか?」
その問いは、甘い誘惑のように響いた。 今の私なら、王都を消し去ることも、エドワードたちを永遠の苦しみに叩き落とすことも容易い。それが、虐げられた「聖女」の選ぶべき、最も美しい復讐の形かもしれない。
だが、私は静かに首を振った。
「……いいえ。そんな退屈なことのために、私の力を使うつもりはありません」
私の答えに、ゼノスの眉がわずかに動いた。
「復讐は、私を害した者たちに相応の報いを与えるための『手段』に過ぎません。私の目的は、もっと別の場所にあります」
「ほう……。世界の破滅よりも、さらに強固な望みがあると?」
「ええ。私が守りたいのは、この広い世界ではなく、私の手の届く範囲にある『温もり』だけ。……そのためなら、私は神にだって、魔王にだって抗ってみせますわ」
不敵に言い放った私に対し、ゼノスは一瞬の静寂の後、城全体を震わせるような高笑いを上げた。
「ハハハハハ! 素晴らしい! 世界の平和を唱えていた聖女が、今や一個の執着のために理を捨てるとは! ……アリシアよ、貴様のその『深淵』、さらに詳しく聞かせてもらおうか」
魔王の威圧が、歓喜の色を帯びて膨れ上がった。




