第13話:この愛だけは奪わせない
ザックス子爵が這う失態を見せて逃げ出した後、ベルンシュタイン領には奇妙な平穏が訪れていた。 私兵たちは這々の体で撤退し、村人たちは「ベルンシュタインの古神が守ってくださった」と根拠のない噂に花を咲かせている。
だが、私は知っている。この平穏がどれほど脆いものか。 そして、この温かな食卓を守るためには、私が「無能なアリシア」であるだけでは足りないということも。
「……アリシア、どうしたんだい? スープが冷めてしまうよ」
父・バルトが心配そうに顔を覗き込んできた。 襲撃の際についた汚れは綺麗に拭き取られ、彼はいつもの、お人好しで不器用な父親に戻っている。
「いいえ、お父様。……ただ、幸せだなって思っていただけですわ」
私は微笑み、具の少ないスープを口に運んだ。 かつて、魔法少女・星野聖良として戦っていた頃、私は「幸せ」を数えることなどなかった。 明日生き残れるか、仲間を死なせずに済むか、街を壊さずに済るか。そんな「マイナスをゼロにするための義務」に追われ、自分の心に鍵をかけていた。
けれど今は、この温かいスープの湯気だけで、胸がいっぱいになる。
(……この人たちは、私が『無能』であっても、こんな風に笑いかけてくれる)
もし私が、あの日ザックスを追い払ったのが自分の力だと明かしたらどうなるだろう。 きっと、二人は私を誇りに思うだろう。同時に、私を「家の再興の道具」として期待してしまうかもしれない。 それは彼らの本意ではなくとも、没落した貴族という立場がそうさせるはずだ。
私は、それだけは避けたかった。 「期待」という毒は、いつか純粋な愛情を蝕み、義務へと変えてしまう。 前世で何度も見てきた、美しくも醜い崩壊のプロセス。
(だから、私は影でいい。……いいえ、影に徹するわ)
その夜。 私は家族が寝静まったのを確認し、屋敷の裏手にある森へと向かった。 手近な大岩に手をかざし、私は前世の記憶にある「術式」を、この世界の理に合わせて組み替えていく。
全属性Sランクの魔力が、私の意志に応じて精緻な幾何学模様を描き出す。
「『絶対不可視の結界』……それと、『敵意の反転』」
指先から放たれた極小の魔力糸が、ベルンシュタイン領全体を包み込むように広がっていく。 この結界は、領地に悪意を持って侵入する者の精神を攪乱し、無意識に「ここには何もない」と思わせる認識阻害の魔法だ。 同時に、屋敷の周囲には私が直接介入しなくても発動する防衛術式を幾重にも張り巡らせた。
「これで……お父様たちが、また危険な目に遭うことはないはず」
額に浮かんだ汗を拭う。 魔力量は無限に近くとも、これほど精密な術式を一人で維持するのは、魔法少女時代でもやったことがない。
「アリシア……?」
背後から、眠そうな声がした。 心臓が跳ね上がる。反射的に魔力を霧散させ、私は振り返った。
「お母様……? どうかなさいましたか?」
そこには、ナイトウェアを羽織ったメルが立っていた。 彼女は私の側に歩み寄り、冷えた私の手を自分の両手で包み込んだ。
「月があまりに綺麗だったから、アリシアがいないことに気づいてしまって。……こんな夜更けに、何をしていたの?」
「……お祈りをしていました。この幸せが、ずっと続きますようにって」
嘘ではない。 メルは私の言葉に、慈しむような微笑みを浮かべ、私を強く抱きしめた。
「大丈夫よ。何があっても、お父様とお母様があなたを守るわ。あなたは、私たちの光なんだから」
母の心臓の鼓動が、トクトクと伝わってくる。 その温かさに、私は誓いを新たにした。
(守らせるなんて、言わせない)
私はメルの背中に手を回し、小さく頷いた。
(お父様、お母様。あなたたちは、ただ笑っていて。……泥にまみれるのも、血を流すのも、全部私が引き受ける。この愛だけは、世界中の誰にも、神様にだって奪わせない)
だが、この時の私はまだ知らなかった。 私が領地に施したあまりに巨大で、あまりに異質な魔力結界が、王都にある「魔力観測儀」を激しく揺らしていたことを。
没落貴族の「無能な娘」を見出すための、王国の歪んだ好奇心が、すぐそこまで手を伸ばしていた。




