第10話:ベルンシュタイン家の「宝物」
アリシアとして生を受けて、五年が過ぎた。
前世では、十四歳で魔法少女という過酷な労働に身を投じていたが、この世界での五年間は、驚くほど緩やかで、そして「無意味」だった。何かに追われることも、誰かの代わりに血を流すこともない。ただ、子供として生きる。そのことが、これほどまでに贅沢なことだとは知らなかった。
「アリシア、見てごらん。今日はカブが立派に育ったよ」
庭の小さな畑から、父のバルトが泥だらけの顔で笑いかけてくる。 かつての名門、ベルンシュタイン家。その当主であるはずの彼は、今では一介の農夫のように汗を流している。没落の理由は、あまりにも彼らしいものだった。親しくしていた友人の多額の借金を、疑いもせずに連帯保証人として引き受けたのだ。
友人は逃げ、借金だけが残った。 前世の私なら「なんて馬鹿な人なんだろう」と切り捨てていただろう。けれど、今の私にはわかる。彼は「正義」や「計算」で動いているのではない。ただ、目の前の誰かを信じずにはいられない、不器用なほど優しい人なのだ。
「お父様、お顔に泥がついていますわ」
私が手拭いを持って駆け寄ると、バルトは大きな手で私の頭を撫でた。
「おやおや、ありがとう。アリシアは本当に気が利く良い子だ。父さんは幸せ者だな」
その手の温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。 ここには、私を「最強の戦力」として見る目は存在しない。私はただ、彼の娘というだけで、無条件に全肯定されている。
昼食の時間になり、私たちは薄暗い、けれど手入れの行き届いた食堂に集まった。 テーブルに並んだのは、バルトが育てたカブのスープと、少しパサついた黒パン。そして、真ん中に置かれた小さな小皿には、一切れの干し肉があった。
「さあ、アリシア。このお肉をお食べ。成長期には栄養が必要だからね」
母のメルが、唯一の「ご馳走」である干し肉を私の皿へと移した。
「でも、お母様。これは昨日のバザーでお父様が買ってきた、お二人のための……」
「いいのよ。私たちはお腹がいっぱいだわ。ねえ、あなた?」
「ああ。父さんはさっき、畑でカブをつまみ食いしたからな。もう満腹だ」
嘘だ。バルトのお腹が、かすかに鳴ったのを私は聞き逃さなかった。 彼らは、自分たちが飢えていても、私にだけは「ひもじい思い」をさせまいとする。
前世の記憶が、フラッシュバックする。 『セイラ、これ私の残りだけど食べる? あ、お肉はもうないよ』 『聖良ちゃん、悪いけど今日の夜ご飯、私のパトロール代わってくれるなら奢ってあげる。……あ、一番安い牛丼ね』
仲間のために戦場を駆けずり回り、ボロボロになって帰ってきた私に投げ与えられていたのは、そんな「残飯」のような慈悲だった。私はそれを、仲間との絆だと思い込もうとしていた。
(……ああ。全然、違う)
私は、干し肉を小さくちぎり、バルトとメルの皿に半分ずつ戻した。
「アリシア?」
「……みんなで食べたほうが、もっと美味しいですわ」
私が微笑むと、二人は一瞬呆然とした後、目尻を熱くして私を抱きしめた。
「ああ……なんて優しい子なんだ。アリシア、お前は我が家の、いや、この世界の宝物だよ」
骨が軋むほどの強い抱擁。 そこにあるのは、私を利用しようとする意図など微塵もない、純粋な愛だった。
(……決めたわ)
彼らの温もりに包まれながら、私は心の中で静かに誓った。
(この人たちの愛を、私は絶対に裏切らない。そして……この暖かな場所を奪おうとする奴がいたら、私は、この世界の全てを敵に回してでも、そいつを滅ぼす)
それは、かつて「世界平和」を掲げていた聖良には、決して持てなかった感情。 「誰かのため」ではない。「私の愛するもの」を守るための、利己的で、けれど揺るぎない覚悟。
その夜、私は独り、月明かりの下で手のひらを見つめた。 集中すると、指先から微かな、けれど極めて高密度の魔力が立ち上がる。 火、水、風、土、光、そして……深い夜のような闇。
全属性Sランク。 この世界を救うことも、滅ぼすこともできる力。
「……もう、搾取はさせない」
私は静かに、けれど強く魔力を練り上げた。 この平和な日常を「檻」にはさせない。この力を、家族を守るための「盾」に変えてみせる。
ベルンシュタイン家の小さな屋敷を包む静寂の中で、アリシアの覚悟は、静かに、そして鋭く研ぎ澄まされていった。




