第一七三話 噂
残る四日で克服すべきは、なんといっても弓矢の射程距離である。
孔明と交わした取り決めのひとつに、次のようなものがある。
模擬戦の開始時、両者のあいだに八十歩の距離を置くこととする。
「つまるところ、八十歩先の相手に弓矢がとどかなければ、一方的な先制攻撃を許すことになるのではないか?」
そう梁緒は懸念をあらわした。
姜維もまったく同感である。
戦う以上、そこから距離がはなれていくとは考えがたい。
とりあえず、殺傷能力を大幅に制限した矢の射程距離を、八十歩先まで伸ばさなければならない。
それさえできれば、この条件で不利をこうむることはなくなろう。
「なあ、姜維。八十歩の距離を指定したのは孔明先生だ。鏃のついていない矢であろうと、むこうは余裕でとどかせてくるんだろうな」
おもしろくなさそうな顔でいったのは梁虔である。
なにしろ、陸渾の胡孔明といえば、発明家としても肩をならべる者はいないといわれている人物である。
鏃のない矢を、本物の矢より遠くまで飛ばしてくるかもしれなかった。
姜維は、つとめて客観的に分析してみせる。
「これが四十歩だと、もう弓を手にする距離ではなくなってくる。百六十歩だと、私たちの矢だけがとどかない可能性がある。八十歩であれば、調整に時間はかかるかもしれないが、こちらの矢もとどくようになるはず。それに八十歩は、本物の戦場でも矢が飛び交う距離だ。妥当な距離だと思う」
不出来な矢をもちいて、本物の戦場と同じ距離を射合わせようというのだから、奇妙な話にも思えるが、これは射程距離の意味合いが異なるからである。
本物の戦場における射程距離は、敵を殺傷する威力をそなえたうえでの飛距離である。
対して、この模擬戦では、短兵器、長兵器、遠射兵器の別を問わず、攻撃が命中した時点で、その人物は戦闘不能になったと見なされる。馬に命中した場合は、下馬しなければならない。
つまり、どんなに弱い矢勢でも、命中さえすれば、相手を戦闘不能に追いこめるのだ。
「もし、八十歩先までとどく矢がつくれなかったら……。いっそのこと、最初から突撃しちまうか?」
梁虔はおどけた口調でいうと、二、三回まばたきをした。
姜維が真顔でうなずいてみせたのだ。
「矢戦が不利だと判断したら、距離をつめるしかない」
模擬戦まで、あと二日となった。
麒麟団が拠点としている亭の前で、姜維と梁虔をふくむ八人が、横一列に立ちならんだ。選出された腕自慢たちである。
梁緒たちが見守るなか、まず姜維が弓に矢をつがえた。
眼光を集中させ、八十歩先に設置された的に狙いを定める。
的は、支柱に取りつけられた小さな板だ。
ほぼ正方形の板に、人の頭ほどの大きさの丸が描かれている。
極限まで集中力を高め、風が凪ぐ瞬間を見はからい、姜維は矢を放った。
青空に吸いこまれた矢は、ゆるやかな放物線を描いて、的の上辺をかすめた。
つづいて、梁虔が矢を射た。
彼の矢は、姜維のものより低い軌跡を残して、的の上を飛び越えていった。
それから順番に、六人の若者が矢を射かけた。
的にあたった矢こそ一本もなかったが、いずれも飛距離は十分である。
これで戦える。恥ずかしくない戦いができる。
俺たちは半人前かもしれないが、力を合わせれば立派に戦えるんだ!
彼らは小さな達成感をわかちあったが、そのよろこびは長くつづかなかった。
しばらくして、ひとりの団員が冀県から駆けもどってきて、
「た、大変だぁ! 変な噂が流れてるッ! この模擬戦で負けたら、団長が孔明先生の弟子になって陸渾に行く、って!」
と報告したのだ。
たちまち騒然となった。
そんな取り決めはなかったはずだ。
孔明先生は、最初からこれが狙いだったのか?
事実とは異なる噂なのだから、否定してまわったほうがいいのではないか……。
「姜維の将来を考えると、孔明先生の弟子になったほうがいいのではないか?」
梁緒がつぶやくと、混乱はさらに深まった。
梁緒は副団長であり、彼の家は有力な豪族である。その発言は無視できるものではない。
これには、族弟の梁虔が、声を高めて反論した。
「姜維は俺たちと冀県を守るんだッ!」
ともに麒麟団を立ちあげた梁緒と梁虔までもが、意見を衝突させているのだ。
姜維はあわてて鎮静化をはかった。
「私は麒麟団の団長をやめるつもりはない」
姜維のひとことで、ひとまず、それ以上の紛糾はさけられた。
だが、先ほどまでの陽気な空気はもどらなかった。
「おそらく、姜維を弟子に取ろうとしているという話と、模擬戦をおこなうという話が、混同されてしまったのだろう。なにかを賭けて勝負する。よくある話だからな」
麒麟団の拠点を訪れた尹賞が、そう推測を立てたのは、模擬戦の前日のことである。
「孔明先生の目的が、君を弟子にすることであろうと、やる気のない弟子に用はあるまい。騙して陥れるようなまねはしないはずだ」
「私もそう思います」
姜維も、孔明が意図的に噂を流したとは思わない。
そのような強硬な手段をとってまで弟子にしようとする価値を、姜維は自身に見いだしていなかった。
「それで、勝算はおありかな、団長どのは」
からかい半分に尹賞が笑いかけると、姜維も笑いをさそわれて、
「わかりませんよ、そんなこと」
やるべきことはやった。
胸を張ってそういえるが、勝算となると別の話である。
相手の戦力がわからないのだから、計算しようがない。
孔明の武勇もわからなければ、弟子たちの武勇もわからないのだ。
馬鈞という弟子は、自分が参加させられると知って驚いていたようだから、腕に自信がないのだろう。
警戒する必要性は薄いように思われる。
だが、鄧艾と石苞という弟子は、まったく動揺していなかった。
とくに鄧艾という男からは、並々ならぬ強者の匂いが感じられた。
「尹賞さんも、孔明先生とお会いしたのでしょう?」
「ああ」
「孔明先生が模擬戦を持ちかけた理由はわかりますか?」
鄧艾と石苞の武勇のほどを知りたいところだが、それを尹賞が知っているとは思われない。
それよりも気になっていることが、姜維にはあった。
模擬戦をおこなう理由、あるいは目的である。
麒麟団のなかには、これを通過儀礼のようにとらえている者がいる。
ここで孔明に認めてもらえれば、麒麟団は社会的に認められ、より大きくなれる、という考えだ。
さしずめ、登竜門に挑むかのごとき心境である。
しかし、それだけでは孔明側に利がない。
孔明はなにを考えているのか。
「それは私も気になっていたからな。訊いてみたよ」
「孔明先生はなんと?」
「孔明先生は、麒麟団の軽挙をいましめようとされていた。ここで血気盛んな団員を叩いておけば、危険なまねはしなくなるだろう、とね。麒麟団の危うさを取りのぞけば、君の心残りがなくなる。そうお考えになったのかもしれない」
「私の、心残り……」
「君をこの地にしばりつけている理由が、馬超だけではなく麒麟団にもあることを、孔明先生は見抜いておられたのではないか?」
見抜いていない。
麒麟団内部のはねっかえりをへこませておけば、姜維は感謝してくれるだろう。麒麟団の活動を心配している姜維の母も、感謝してくれるにちがいない。ついでに、あざやかに勝利してみせれば、姜維が弟子入りに興味を抱いてくれるかもしれない……。などと都合のよいことを考えているだけである。
真実から遠い尹賞の言葉は、しかし、姜維の耳には真にせまっているように聞こえた。
「…………」
姜維の胸を、衝撃が烈風となって吹き抜けた。
孔明は看破していたにちがいない。
馬超に対する執着、麒麟団に対する責任……。
姜維の心にあるものを、彼が自覚していたよりも深く。
それも、あのわずかな、会話ともいえない会話だけで……!!
天下は広い。
姜維には想像もつかないような人物がいる。
その果てしない広さに、はじめて触れた気がした。
少年の心の天秤は、大きくかたむきつつあった。




